「来目稚子」と「嶋稚子」

市辺押磐皇子の2人の遺児は、播磨志染に隠れていたところを偶然に発見され、弟、兄の順で即位し、顕宗天皇、仁賢天皇となります。

顕宗・仁賢の亦の名に注目します。

顕宗の亦の名は、『紀』顕宗即位前紀の文注に「来目稚子」とあります。

「来目」は「久米」とも表記され、神武東征伝承において神武の側近であった「大久米」に通じ、「大久米」の居住地となった大和国高市郡久米郷は、久米寺の「久米の仙人」伝承にみられるように、神仙思想と深く関わる土地です。(→ 築坂・久米・竹田と大伴連

顕宗・仁賢を播磨志染で発見した伊予来目部小楯の名が「来目(久米)」を含むことも注目されます。(→ 伊予来目部小楯と播磨志染

また、『万葉集』に「久米の若子」の歌がみえます。

『万葉集』巻3に「博通法師の紀伊国に往き、三穂の石屋を見て作りし歌3首」として、次のようにみえます。

はだすすき久米の若子がいましける三穂の岩屋は見れど飽かぬかも

常磐なす岩屋は今もありけれど住みける人そ常なかりける

岩屋戸に立てる松の木汝を見れば昔の人を相見るごとし

『万葉集』3-307・308・309

久米若子が住んでいた「三穂の石屋」の故地は、和歌山県の日ノ御崎の近く、美浜町大字三穂にあります。

『万葉集』巻4の「和銅4年辛亥、河辺宮人の姫島の松原の美人の屍を見て哀慟して作りし歌4首」のなかにも「久米の若子」についての歌がみえます。

みつみつし久米の若子がい触れけむ磯の草根の枯れまく惜しも

『万葉集』4-435

「姫島の松原」とは、『万葉集』4-434に「風早の美保の浦廻」がみえるので、「風早の美保」の近くであるといわれますが、「美保」が紀伊の「三穂」なのか否かはわかりません。

「久米の若子」の歌はいずれも、もの悲しい無常観が漂います。

紀伊国の岩屋に住んだり磯辺を訪れたのは顕宗本人ではないはずですが、無常観は、顕宗の事績に関係する可能性があると考えます。

いっぽう、仁賢天皇の亦の名について、『紀』仁賢即位前紀に「字は、嶋郎」、『紀』顕宗即位前紀の文注に「嶋稚子」とみえます。

「嶋郎」「嶋稚子」は、『丹後国風土記』逸文にみえる「水江浦嶼子」「筒川嶼子」に通じるもので、「来目稚子」同様、神仙思想が色濃いことが注目されます。(→ 丹後の「浦嶋子」

「筒川嶼子」は、日下部首らが先祖と記され、『紀』顕宗即位前紀に、顕宗と仁賢が、父が雄略に殺された後、日下部連使主に連れられて丹後国与謝郡に逃れたこととの関係が指摘されます。

◇ 顕宗・仁賢・武烈の時代の記述は、『記』『紀』神武段・崇神段と様々な点で相関性がみられます。(→ 顕宗・仁賢・武烈と吉備津彦

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