顕宗・仁賢の兄弟関係の変化

清寧天皇が亡くなり、後継王が不在となった時、雄略天皇に殺された市辺押磐皇子の遺児2人が播磨の志染で見つかり、弟、兄の順で即位します。

弟が顕宗天皇、兄が仁賢天皇です。

『紀』顕宗即位前紀によると、顕宗・仁賢の兄弟は、播磨の志染で出自を明かす際の順序、舞いを披露する順序、大王に即位する順序を互いに譲り合いました。

『記』にも同様の話が見られ、『播磨国風土記』美囊郡志染里条では、詠辞を譲り合い、賀毛郡玉野村条では、妃を譲り合う話がみえます。

「行動的な弟」と「従順な兄」が相譲する構図が繰り返し描かれるという特徴がみられます。

しかし、相譲の構図がみえるのは顕宗の即位までであり、以後、両者の関係は徐々に変化します。

大王となった顕宗は父の仇である雄略の陵墓を壊そうとしますが、仁賢が諫めて止めさせます。

「暴走する弟」を「諫める兄」という構図に変わります。

さらに、顕宗が亡くなり仁賢が即位すると状況はいっそう変化します。

『紀』仁賢紀2年9月条に次のようにみえます。

難波小野皇后、宿、敬なかりしことを恐れて自ら死せましぬ。

〈弘計天皇の時に、皇太子億計、宴に侍りたまふ。

 瓜を取りて喫ひたまはむとするに、刀子無し。

 弘計天皇、親ら刀子を執りて、其の夫人小野に命せて伝へ進らしめたまふ。

 夫人、前に就きて、立ちながら刀子を瓜盤に置く。

 是の日に、更に酒を酌みて、立ちながら皇太子を喚ぶ。

 斯の敬なかりしに縁りて、誅せられむことを恐りて自ら死せましぬ。〉

顕宗の后は、昔の宴会での無礼を、仁賢に咎められ自死します。

昔のことを蒸し返されて自死に到るというのは不可解なほどの関係の悪化といえます。

「億計・弘計両天皇は相譲の説話にも拘わらず、事実は政治的に対立したことの反映か」(『日本書紀(三)』1994年、岩波書店、137頁注6)という指摘がありますが、顕宗・仁賢の物語の本質は「次第に敵対する兄弟関係」といえるかと思います。

2人の支持勢力が異なることが注目されます。

仁賢は、石上の物部連・春日臣の支持を受けるのに対し、顕宗は、片岡の葛城襲津彦後裔の葦田宿禰の支援を受け、2勢力は互いに敵対しています。(→ 和珥春日の后妃)(→ 顕宗・武烈の后妃と陵墓

顕宗と仁賢の諱はそれぞれ「弘計(ヲケ)」「億計(オケ)」で、「弘」は小、「億」は大の意味で、戯画的な名であり、即位に至る経過も演劇的なことから、事実というよりも石上・片岡の2勢力の対立を描く寓話の可能性があると考えます。(→ 顕宗・仁賢・武烈と吉備津彦

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