『紀』顕宗紀に、月神と日神の祭祀の記述がみえます。
阿閉臣事代、命を銜けて、出でて任那に使す。
是に、月神、人に著りて謂りて曰はく、
「我が祖高皇産霊、預ひて天地を鎔ひ造せる功有します。
民地を以て、我が月神に奉れ。
若し請の依に我に献らば、福慶あらむ」
とのたまふ。
事代、是に由りて、京に還りて具に奏す。
奉るに歌荒樔田を以てす。
歌荒樔田は、山背国の葛野郡に在り。
壱伎県主の先祖押見宿禰、祠に侍ふ。
『紀』顕宗紀3年2月条
日神、人に著りて、阿閉臣事代に謂りて曰はく、
「磐余の田を以て、我が祖高皇産霊に献れ」とのたまふ。
事代、便ち奏す。
神の乞の依に田十四町を献る。
対馬下県直、祠に侍ふ。
『紀』顕宗紀3年4月条
3年2月条の月神祭祀と4月条の日神祭祀は、共に阿閉臣事代が関与し、一体的関係にあることがわかります。
阿閉臣は、『紀』孝元紀7年2月条に、大彦を始祖とする7族の一つとされ、『姓氏録』にみえる、阿閉朝臣・阿閉臣5氏族もすべて大彦の後裔氏族と記されます。
月神・日神の託宣内容に注目します。
我が祖高皇産霊、預ひて天地を鎔ひ造せる功有します。
民地を以て、我が月神に奉れ。
若し請の依に我に献らば、福慶あらむ。
『紀』顕宗紀3年2月条 月神の託宣
磐余の田を以て、我が祖高皇産霊に献れ。
『紀』顕宗紀3年4月条 日神の託宣
高皇産霊(タカミムスヒ)が上位神として月神・日神を包括する世界観が示されますが、高皇産霊のような高度に抽象化された神学的観念は7世紀後半に成立するものとみられ、『紀』編纂時に加味されたものと推測します。
月神と日神の託宣に潜む差違に注目します。
月神は「民地(=歌荒樔田)を月神に奉れ」、日神は「磐余の田を高皇産霊に奉れ」と託宣しています。
月神は「歌荒樔田」に祭祀されます。
いっぽう、「磐余の田」を奉られたのは日神ではなく高皇産霊となっており、日神の祭祀地について言及されていないことに注目します。
「歌荒樔田」は、現在、松尾神社の摂社となっている、山城国葛野郡の葛野坐月読神社(京都市西京区松室山添町)であり、『松尾社家系図』に「壱伎県主の先祖押見宿禰」にあたる「忍見命」がみえます。(→ 葛野坐月読神社)
いっぽう、「磐余の田」は、大和国十市郡の目原坐高御魂神社とされ、奈良県橿原市太田市町の天満神社に比定されますが異説もあり明確ではありません。
祭祀者である対馬下県直について、『延喜式』神名帳の対馬国下県郡に名神大社として「高御魂神社」がみえ、高御魂(タカミムスヒ)との関係は認められます。
しかし、仮に、神官家を対馬下県直とする「目原坐高御魂神社」があったとしても、高御魂の祭祀地であり、日神の祭祀地ではありません。
『紀』顕宗紀の月神・日神祭祀の記述は、日神についての内容がなく、主眼は「月神の祭祀地の治定」にあるといえます。
葛野坐月読神社の旧社地と思しき土地の小字は「吾田神」であり、また、山城国綴喜郡の月読神社は「大住郷」に鎮座します。(→ 葛野坐月読神社)(→ 山城国綴喜郡の月読神社・樺井月神社)
「吾田」「大住」は日向の地名であり、月神は日向の隼人の神と思われます。
『紀』顕宗紀の記述は、当該期に王権によって日向の隼人の神が奉祭されたことを示しています。