南山城の蟹の伝承と掃守

『日本霊異記』に、山城国紀伊郡の蟹の恩返しの話がみえます。

山城国紀伊郡の娘は、村人に捕まった蟹を助けました。そのあと、田んぼで蛇に襲われた蛙を助けるため、妻となる約束をしてしまい、紀伊郡の深長寺に滞在していた行基に助けを求めました。7日後の夜、蛇が娘の家に来て屋根を破り侵入してきましたが、娘は無事でした。朝、外に大きな蟹が8匹おり、蛇はずたずたに切り刻まれていました。(中巻12縁「蠏と蝦との命を贖ひ生を放ちて現報に蠏に助けらるる縁」)

『今昔物語集』『元亨釈書』『古今著聞集』などにみえる、京都府木津川市山城町綺田の蟹満寺「蟹の恩返し伝承」とよく似ていることが注目されます。(→ 山城国相楽郡蟹幡郷と蟹満寺)

蛇に襲われた蛙を助けるため妻となる約束をしたのが、「蟹の恩返し伝承」では父親であること、助けた僧が行基とされることを除くと構成は同じです。

「蟹の恩返し伝承」は、山城国紀伊郡・相楽郡など広く語られていたことがわかります。

「蟹」は、何を意味するのか。

『紀』垂仁系譜に妃としてみえる「綺戸辺(かにはたとべ)」は、蟹満寺の所在する山城国相楽郡蟹幡郷に関わります。

『記』開化系譜に、山代之大箇木真若王の子としてみえる「迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)」について、西郷信綱氏は『記伝』を引用して「蟹の目の厳しという義のたたえ名か」と記し、蟹との関係を示唆します。(西郷信綱『古事記注釈5』2005年、216頁)

『記』『紀』開化系譜・垂仁系譜にみえる南山城の人物たちが蟹の伝承の淵源と思われます。

『続紀』大宝元年(701)正月23日条に、山代国相楽郡令追広肆掃守宿禰阿賀流が遣唐使に任命されたことがみえ、掃守宿禰が当地の郡領氏族であったことが窺えます。(『続後紀』承和3年5月戊申(10日)条によると阿賀流は唐で客死しています)

『古語拾遺』に、掃守連祖天忍人が彦波瀲武鸕鷀草葺不合の産屋で箒で蟹を掃く話がみえ、一義的に蟹と関わる氏族は掃守連(掃守宿禰)とみられます。(→ 彦波瀲武鸕鷀草葺不合と掃守

掃守の本拠地は、奈良県葛城市加守とされますが、山城国綴喜郡・紀伊郡・相楽郡も広い意味で掃守の関係地域であった可能性があり、『記』『紀』開化系譜・垂仁系譜の南山城の人物の属性もそこにつながるかと思われます。

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