樟葉宮・筒城宮・弟国宮

『紀』によると、継体は、元年正月に越前三国を発して樟葉宮に至り、2月に即位し、5年10月に山背の筒城、12年3月に弟国、20年9月に磐余の玉穂に遷都しています。

樟葉宮は、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社が旧跡とされ、筒城宮は、京都府京田辺市多々羅都谷、弟国宮は、京都府長岡京市今里あるいは井ノ内と推定されます。

(『日本歴史地名大系(JapanKnowledge)』:大阪府:枚方市>楠葉村>樟葉宮跡、京都府:綴喜郡>田辺町>多々羅村>筒城宮跡、京都府:長岡京市)

3つの王宮の推定地は、17km×4kmの長方形の狭い範囲に収まります。

なぜ、継体は即位から20年にわたって、狭い範囲で3カ所も王宮を移り変えたのでしょうか。

また、樟葉(楠葉)、筒城(綴喜)、弟国(乙訓)の順に、どのような意味があるのでしょうか。

3つの土地の属性を探ります。

楠葉は、河内・摂津・山城の3国の国境近く、生駒山地北端、男山丘陵の南西麓、淀川左岸に位置します。

『記』崇神記に、「久須婆之度」がみえ、『記』安康記に、市辺之忍歯王の子2人(顕宗・仁賢)が「玖須婆之河」を渡り播磨国へ逃げたことが記されるように、淀川渡河の要衝でした。

当該渡河は、行基の架橋による山崎橋に継承された可能性があります。

(行基建立の楠葉の久修園院について「行基年譜」に「山崎」の注があり、『続紀』宝亀4年(773)11月20日条にみえる河内国山崎院は久修園院のことで、淀川対岸の山城国乙訓郡・摂津国島下郡に架橋された山崎橋に関わる寺院と推測されます。(『日本歴史地名大系(JapanKnowledge)』:大阪府:枚方市>楠葉村>久修園院、山崎院跡))

楠葉から淀川を渡河すると、西は山陽道、東は、山城国乙訓郡を経由して山陰道に繋がります。

綴喜の勢力は、系譜の上で継体との血縁関係が認められます。

『記』『紀』垂仁系譜にみえる、カニハタトベ・カリハタトベの関係地域の1つに、山城国綴喜郡の樺井(刈羽井)がありますが、カニハタトベの子は、継体母系の三尾君の祖です。(→ カニハタトベ・カリハタトベ

継体と綴喜の勢力とのあいだに政治的連携があったことが窺われます。

普通に考えると、王宮は、親しい関係にあった綴喜1カ所で済むはずであり、楠葉・乙訓には別の意味があったと想像されます。

まず要衝の楠葉を押さえ、次に親しい関係にあった綴喜に移動し、最後に乙訓へ向かったことから、主眼は、乙訓にあったのではないかと考えます。(楠葉は、乙訓攻略に重要な土地でもあります)

乙訓には、古くから有力な神として、乙訓坐火雷神が祭祀され、関係する話として、『山城国風土記』逸文の鴨氏伝承があります。

鴨氏伝承は、『紀』神代紀第9段の天香香背男伝承と共通点をもち、両者は、山城国乙訓郡の天背男勢力の平定を下敷きにした話と推測されます。

(→ 角凝と天背男・久我

天背男は、ホアカリとの深い関係が認められ、いっぽうで、継体は即位前にホアカリを祖とする尾張連と婚姻関係を結んでおり、2つの事象のあいだに関連がみられます。(→ 継体と角凝)

◇ 『記』『紀』崇神段にみえる、武埴安彦反乱伝承は、山城国相楽郡・宇治郡を舞台とする。「久須婆之度」も戦場となっている。当該地域は、継体母系のカニハタトベ・カリハタトベ関係地と重複する。(→ 武埴安彦反乱伝承)

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