継体と尾張連草香女目子媛の結婚

『紀』継体紀元年3月条に、妃、尾張連草香女目子媛のことがみえます。

元の妃、尾張連草香が女を目子媛と曰ふ。〈更の名は色部。〉

二の子を生めり。皆天下を有らす。

其の一を勾大兄皇子と曰す。是を広国排武金日尊とす。

其の二を檜隈高田皇子と曰す。是を武小広国排盾尊とす。

『記』は、「尾張連等祖、凡連妹、目子郎女」と記します。

継体后妃の記載順の1~3番目をみると、『紀』は、①「皇后」手白香皇女、②「元妃」尾張連草香の女目子媛、③三尾角折君の妹稚子媛の順、『記』は、①三尾君等祖、若比売、②尾張連等祖、凡連妹、目子郎女、③意富祁天皇御子、手白髪命の順となっています。

皇后手白香皇女・尾張連草香女目子媛・三尾角折君妹稚子媛の3人が重要な后妃であったことが窺われます。

『紀』継体紀元年2月条にみえるように、皇后手白香皇女との結婚は即位と同時期ですが、尾張連草香女目子媛・三尾角折君妹稚子媛とは、それ以前に婚姻が成立していました。

三尾角折君妹稚子媛は、継体の生育地の妃ですが、尾張連草香女目子媛は、そうではなく、政略的要因が窺われます。

さらに、目子媛の子2人(安閑・宣化)が継体の後継王として即位したことも異例の事象といえます。

継体と尾張連草香女目子媛の結婚の背景に「盟約」が存在した可能性があります。

継体は、尾張連に対して「何か」を要請し、「見返り」に、目子媛との子2人を後継の大王とすることを約束したと推測します。

「盟約」成立を受けて、継体は新政策を施行し、5世紀末の王権の混乱を収束させたのではないかと思われます。

◇ 継体は、尾張連に対し「草薙剣祭祀の変更」を要請したのではないか。(→ ヤマトタケル伝承と継体)(→ 尾張連による草薙剣祭祀

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