『紀』継体即位前紀、『上宮記』逸文によると、彦主人王は、「近江国高嶋郡の三尾の別業」「弥乎国高嶋宮」にいた時、越前国坂井郡高向から迎えられた振媛と結婚し、2人のあいだに継体が生まれました。
「近江国高嶋郡の三尾の別業」「弥乎国高嶋宮」は、『和名抄』の近江国高島郡三尾郷とされます。
滋賀県高島市安曇川町三尾里が遺称地とみられ、『延喜式』兵部省近江国駅馬の「三尾」駅も周辺に比定されます。
『続紀』天平宝字8年(764)9月18日条に、藤原仲麻呂とその一党が「高嶋郡三尾埼」で追討軍に大敗し「勝野鬼江」で抗戦を試みたが失敗、仲麻呂は捉えられ殺されたという記述がみえます。
『万葉集』に、
大御船泊ててさもらふ高島の三尾の勝野の渚し思ほゆ(巻7-1171)
思いつつ来れど来かねて水尾が崎真長の浦をまたかへり見つ(巻9-1733)とあることから、
「三尾(水尾)崎」は、白鬚神社のある明神崎に比定され、そこから鴨川河口にかけて長い砂洲が延び、内側に「勝野鬼江」とよばれる入江が形成され、天然の良港「勝野津」が存在したと考えられています。
鴨川の南にある乙女ヶ池は「勝野鬼江」の名残といわれます。
入り江の奥に、『延喜式』神名帳にみえる名神大社、「水尾神社二座」が鎮座します。(高島市拝戸)
鴨川北岸に、「三重生神社」が鎮座します。(高島市安曇川町常磐木)
また、『紀』天武紀にみえる、壬申の乱の際、大海人方に攻略された「三尾城」も当地にあったと推測されています。
「三尾」は、近江国高島郡の南部、勝野津を擁する鴨川下流域を指すことがわかります。
しかし、当該地域に関わる史料に、三尾君は検出されず、在地有力勢力は不明です。
8世紀の近江国高島郡の有力郡領氏族は、北部の石田川流域(高島郡角野郷)を拠点とする角山君(『紀』孝昭記の天押帯日子命後裔の都怒山臣)となっています。
(大橋信弥「三尾君氏をめぐる問題ー継体擁立勢力の研究ー」(『日本古代の王権と氏族』1996年))
◇ 三尾君の本拠地について、近江国高島郡三尾郷と越前国坂井郡高向郷とに見解が2つに分かれている。(→ 振媛と三尾君をめぐる問題)
◇ 『上宮記』逸文系譜に、振媛は三尾君祖の後裔と記されるが、振媛の出身地とされる越前国坂井郡高向郷においても史料に三尾君は検出されず、在地有力勢力は三国真人となっている。(→ 越前国坂井郡高向郷)