『続日本紀』天平宝字8年11月庚子(7日)条に、次のような記述がみえます。
復高鴨神を大和国葛上郡に祀る。
高鴨神は、法臣円興・弟中衛将監従五位下賀茂朝臣田守ら言さく、
「昔、大泊瀬天皇葛城山に獦したまひし時、老人有りて、
毎に天皇と相逐ひて獲を争ふ。
天皇怒りて、その人を土佐国に流したまふ。
先祖の主れる神化して老夫と成り、爰に放逐せらる」とまうす。
〈今前記を検ふるに、その事を見ず。〉
是に、天皇乃ち田守を遣して、これを迎へて本処に祀らしむ。
昔、葛城山で雄略天皇と争って土佐国に流された高鴨神が、賀茂朝臣田守らの進言によって、葛城の地へ復祠されたことが記されます。
しかし、注記にあるように、『記』『紀』では、雄略が葛城山で出会ったのは高鴨神ではなく、一言主神とされ、土佐への配流はみえません。
高鴨神社(奈良県御所市鴨神)は、『延喜式』神名帳の大和国葛上郡に「高鴨阿治須岐託彦根神社四座」とみえ、『記』大国主神の系譜に「阿遅鉏高日子神は、今迦毛大御神と謂ふぞ」、『延喜式』「出雲国造神賀詞」に「阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の神奈備に坐せ」とあるように、祭神は、味耜高彦根神であり、奉祭勢力は、賀茂朝臣(鴨君)です。
味耜高彦根神と一言主神はどのような関係にあるのか。
土佐からの高鴨神の復祠とは何を意味するのか。
『釈日本紀』巻12所引『土佐国風土記』逸文に、次のような記述がみえます。
土佐の郡
郡家の西のかた去くこと四里に土佐の高賀茂の大社あり。
その神の名を一言主の尊とせり。
その祖は詳かにあらず。
一説に曰はく、大穴六道の尊の子、味鉏高彦根の尊なりといふ。
「土佐の高賀茂の大社」の祭神は一言主神であり、一説に、味鉏高彦根神とされることがみえます。
さらに、『釈日本紀』巻12所引「暦録」のある説に、不遜の言により土佐に流された一言主神を、葛城山東麓「高宮岡上」に迎え、その和魂は土佐に留めて祀らしめたと、『続日本紀』に添った記述がみえます。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:御所市>神通寺村>高鴨神社、御所市>森脇村>一言主神社、高知県:高知市>一宮村>土佐神社)
「土佐の高賀茂の大社」は、『延喜式』神名帳の土佐国土佐郡に「都佐坐神社」とみえる、土佐神社(高知県高知市一宮)を示し、土佐国造家が奉祭する神社とされます。
「国造本紀」に、都佐国造について、次のように記されます。
志賀高穴穂朝御代 長阿比古同祖 三嶋溝杭命九世孫小立足尼定賜国造
長阿比古は長我孫とも記され、長柄首・長公とともに事代主神後裔氏族であり、三嶋溝杭は、その娘が事代主神と神婚した摂津国三嶋の三嶋溝橛耳を示します。(→ 三嶋溝橛耳と事代主神後裔氏族)
土佐(都佐)国造は、事代主神後裔氏族であることがわかります。
また、葛城の一言主神神社の鎮座地も、長柄首の拠点の名柄に北接し、事代主神との関係を示します。
高鴨神の復祠は、事代主神に絡む話であることはあきらかですが、賀茂朝臣(鴨君)は、事代主神後裔氏族なのかというと、『姓氏録』も、『記』大国主神の系譜も、「出雲国造神賀詞」も、事代主神と近い関係にある、味耜高彦根神を奉祭する別系統の氏族とします。
鴨君の神々を時系列で整理すると、8世紀頃から事代主神を鴨神とする動向がみられるようになり、高鴨神の復祠の話もその一貫と推測されます。(→ 鴨君と味耜高彦根神・事代主神)
鴨君は、一言主神を絡めた創作話を仕掛け、一言主神に連なる葛城と土佐の事代主神後裔勢力の掌握を目論み、成功した話ではないかと思われます。