大和大国魂神社は、兵庫県南あわじ市榎列上幡多、成相川右岸の山所地区に鎮座し、『延喜式』神名帳において、淡路国三原郡の名神大社とされます。
祭神である大和大国魂神は、『紀』崇神紀・垂仁紀にみえる、倭直祖市磯長尾市を祭祀者とする大和大国魂神と思われます。(→ 大物主神と倭大国魂神)
大和大国魂神社の至近に「掃守」「倭文」の地名が認められます。
三原川と成相川合流地付近の榎列掃守の地は、久寿2年(1155)12月29日太政官符案(随心院文書)にみえる、掃守庄・掃守保の所在地であり、地区の中央、小丘の岡山に、掃守社があり、掃守連の拠点とみられます。
北接する「倭文」の地域は、倭文連の拠点とみられる、『和名抄』三原郡倭文郷に比定され、倭文神社(倭文委文有本)が鎮座します。
また、大和大国魂神社の北西2.8kmにある、産宮神社(南あわじ市松帆櫟田)は、『紀』反正即位前紀にみえる「淡路宮」の「瑞井」の旧跡と伝わります。
天皇、初め淡路宮に生れませり。
生れましながら歯、一骨の如し。容姿美麗し。
是に、井有り。瑞井と曰ふ。
則ち汲みて太子を洗しまつる。
時に多遅の花、井の中に有り。
因りて太子の名とす。
多遅の花は、今の虎杖の花なり。
故、多遅比瑞歯別天皇と称へ謂す。
『紀』反正即位前紀
また、『淡路常磐草』(享保15年(1730)成立の淡路郷土史研究の源泉とされている地誌)は、『記』安寧系譜にみえる和知都美の「淡路御井宮」も当所であろうと記します。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):兵庫県:三原郡>西淡町>櫟田村>淡路瑞井宮)
大和大国魂神社・掃守神社・倭文神社の3社が半径600m圏内に鎮座し、至近に、安寧・反正に関わる泉の伝承地があることに注目します。
◇ なぜ、「大和大国魂神」が淡路国三原郡に祭祀されたのか。倭直祖長尾市と淡路国の接点は、『紀』垂仁紀の天日槍の話にもみえる。(→ 天日槍と淡路島)
◇ 「掃守」「倭文」の重複は、大和国葛下郡でもみられ、伊勢国多気郡麻続郷では「機殿神」「神守」「大国玉神」の重複がみられる。(→ 葛木倭文坐天羽雷命神社)(→ 伊勢国多気郡麻続郷)