淡路国三原郡の大和大国魂神社

大和大国魂神社(兵庫県南あわじ市榎列上幡多)は、『延喜式』神名帳に、淡路国三原郡の名神大社とされ、臨時祭の名神祭285座にも、淡路伊佐奈岐神社とともにその名がみえます。

祭神の大和大国魂神については、大和国山辺郡の大和坐大国魂神社が分祀されたという説(兵庫県史)があります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):兵庫県:三原郡>三原町>上八太村>大和大国魂神社)

大和坐大国魂神社は、現在、奈良県天理市新泉町に鎮座しますが、『紀』垂仁紀によると、「穴磯邑」に神地を定め「大市の長岡岬」に祀らしめたとあり、「穴磯邑」は、穴師坐兵主神社・穴師大兵主神社の鎮座する奈良県桜井市穴師に、「大市」は、大和国城上郡大市郷、桜井市箸中に比定され、当初は、三輪山山麓にあったことがわかります。(→ 大物主神と倭大国魂神

なぜ、大和大国魂神が淡路国三原郡に祭られたのか。

大和大国魂神社は、三原郡幡多郷の遺称地とされる榎列上幡多の北西端、成相川右岸の山所地区に鎮座し、掃守・倭文という2つの地区に接します。

大和大国魂神社に西接する榎列掃守の地区は、中世に掃守庄・掃守保が展開し、久寿2年(1155)12月29日太政官符案(随心院文書)に淡路国秦郷とあることから、三原郡幡多郷に属したことがわかります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):兵庫県:三原郡>三原町>掃守村>掃守庄・掃守保)

また、北接する南あわじ市倭文(委文・高・庄田・流・長田・土井・安住寺・神道)と松帆櫟田の地区は、三原郡倭文郷に比定されます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):兵庫県:淡路国>三原郡>倭文郷)

ところが、江戸時代のこのあたりの村のまとまりをみると、大和大国魂神社のある上八太村、倭文郷域の櫟田村は、委文組・掃守組・榎並組の3組のうち掃守組に属しており、掃守の属性は、幡多郷と倭文郷のうえに広がっていることがわかります。

掃守は掃守連、倭文は倭文連の拠点を示しますが、2氏族の重層性は、掃守寺が所在し、掃守連の本拠地とみられる奈良県葛城市加守に、倭文連の本拠地とみられる葛木倭文坐天羽雷命神社が鎮座することにもみられ、決定的な理由があることが窺われます。(→ 葛木倭文坐天羽雷命神社

葛城の加守は、『記』『紀』天日槍伝承において、天日槍の子孫が住んだ葛下郡高額郷の比定地の染野に近く、大和大国魂神の祭祀者であった倭直祖長尾市が天日槍を出迎えた記述がみられ、天日槍の刀子が淡路島に祭られたとあることも注目されます。(→ 天日槍と淡路島

さらに、もう1点、当地は、反正天皇と深い関係をもちます。

倭文郷に属した松帆櫟田の産宮神社は、『紀』反正即位前紀にみえる「淡路宮」の「瑞井」の旧跡と伝わります。

天皇、初め淡路宮に生れませり。

生れましながら歯、一骨の如し。容姿美麗し。

是に、井有り。瑞井と曰ふ。

則ち汲みて太子を洗しまつる。

時に多遅の花、井の中に有り。

因りて太子の名とす。

多遅の花は、今の虎杖の花なり。

故、多遅比瑞歯別天皇と称へ謂す。

『紀』反正即位前紀

また、『淡路常磐草』(享保15年(1730)成立の淡路郷土史研究の源泉とされている地誌)は、『記』安寧系譜にみえる和知都美の「淡路御井宮」も当所であろうと記します。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):兵庫県:三原郡>西淡町>櫟田村>淡路瑞井宮)

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