鴨氏と乙訓の火雷神

『釈日本紀』所引『山城国風土記』逸文に、賀茂建角身命と丹波国神野の伊可古夜日女の子、玉依日売が、乙訓郡の社に坐せる火雷命と神婚し、加茂別雷命(上賀茂神社の祭神)が生まれたことがみえます。

「乙訓郡の社に坐せる火雷命」と鴨氏の深い関係が窺われます。

「乙訓郡の社に坐せる火雷命」については、『延喜式』神名帳の山城国乙訓郡に「乙訓坐大雷神社」がみえ、名神大社となっています。

『続日本紀』大宝2年(702)7月癸酉(8日)条に、次のような記述がみえます。

山背国乙訓郡に在る火雷神は、旱毎に雨を祈ふに、頻に徴験有り。

大幣と月次の幣との例に入るべし。

また、『続日本紀』宝亀5年(774)正月乙丑(25日)条に、次のような記述がみえます。

山背国言さく、

「去年十二月、管内乙訓郡乙訓社に狼と鹿と多く、野狐一百許、毎夜に吠え鳴く。

七日にして乃ち止む」とまうす。

『続日本紀』同年6月壬申(4日)条に、この犲狼の怪に対する奉幣の記述がみえ、『続日本紀』延暦3年(784)11月丁巳(20日)条に、長岡京遷都に伴い、従五位下に叙せられたことが記されます。

しかし、『延喜式』以後、朝廷の奉幣が絶えるとともに、乙訓社は記録にみえなくなります。

乙訓坐大(火)雷神社の比定については、古来、角宮神社(長岡京市井ノ内南内畑)と向日神社(向日市向日町北山)のあいだで論争があります。

角宮神社は、火雷神を主祭神とし、社記には、元来、井ノ内の小字宮山に鎮座していたが、文明16年(1484)に旧社の御旅所の地に現在の社殿が再興されたと記されます。

向日神社は、『延喜式』神名帳に「向神社」とみえますが、『向日社略記』に、元は上下2社に分かれ、上社である現社地に向日神が祭祀され、下社に火雷神が祀られていたが、中世初期に下社が大破し、上社に合祀されたとあります。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)京都府:長岡京市>井内村>角宮神社、向日市>向日町>向日神社)

角宮神社・向日神社は、距離800mの至近関係にあります。

桂川支流小畑川流域にあたり、西方3kmの小畑川支流善峰川流域(京都市西京区大原野灰方町)の石作連との関係が推測されます。

また、『山城国風土記』逸文の当該記述の前に、賀茂建角身命が、乙訓郡の「久我」に立ち寄る話がみえますが、久我神社(京都市伏見区久我森の宮町)は、角宮神社の東3.8km、向日神社の東3.0kmと至近関係にあります。

「乙訓郡の社に坐せる火雷命」をめぐる鴨氏の伝承は、「久我」「石作」を含めて探るとよいかと思います。

(→ 『山城国風土記』逸文の鴨氏伝承と久我

◇ 鴨氏伝承は、『紀』神代紀第9段の天香香背男伝承と共通構造を持つ。(→ 角凝と天背男・久我

◇ 伊可古夜日女の出身地である丹波国神野について、『延喜式』神名帳に、丹波国桑田郡と氷上郡に神野神社がみえる。桑田郡の神野神社は、京都府亀岡市宮前町宮川神尾山の宮川神社に比定される。祭神は、伊賀古夜姫命と誉田別命で、下鴨神社の祭神玉依日売の母神ということで、葵祭の行列に、毎年二〇余名の氏子が奉仕する慣例がある。氷上郡の神野神社は、兵庫県丹波市氷上町御油の同名社とされる。丹波市市島町梶原の鴨神社に比定する『丹波氷上郡志』の見解もある。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)京都府:亀岡市>宮川村、兵庫県:氷上郡>氷上町>御油村)

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