『紀』国譲り神話に、倭文神建葉槌と天香香背男についての記述がみえます。
一に云はく、二の神遂に邪神及び草木石の類を誅ひて、皆已に平けぬ。
其の不服はぬ者は、唯星の神香香背男のみ。
故、加倭文神建葉槌命を遣せば服ひぬ。
故、二の神天に登るといふ。
倭文神、此をば斯図梨俄未と云ふ。
『紀』神代紀第9段本文
天神、経津主神・武甕槌神を遣して、葦原中国を平定めしむ。
時に二の神曰さく、
「天に悪しき神有り。
名を天津甕星と曰ふ。亦の名は天香香背男。
請ふ、先づ此の神を誅ひて、然して後に下りて葦原中国を撥はむ」とまうす。
是の時に、斎主の神を斎の大人と号す。
此の神、今東国の檝取の地に在す。
『紀』神代紀第9段一書第2
『紀』神代紀第9段本文一云は、武甕槌神・経津主神が葦原中国を平定した時に、星の神香香背男が服従せず、倭文神建葉槌が派遣されたとあります。
『紀』神代紀第9段一書第2は、武甕槌神・経津主神が、葦原中国を平定する前に、天津甕星、亦の名は天香香背男という天の悪しき神を退治することになり、この時の斎主の神は斎の大人(うし)とよばれ、東国の檝取(かとり)にいるとあります。
武甕槌神・経津主神による葦原中国平定と並行して、天香香背男という神の討伐が行われたことが書かれています。
岡田精司氏は、天香香背男の話について、武甕槌神・経津主神と大己貴神による国譲り神話とは別の話であり、前者が後者に先行すると考えておられます。
また、武甕槌神は、天香香背男を討伐した倭文神建葉槌から分離した神格であり、6世紀に王権による東国征討の武神として発展したものと推測されます。( 岡田精司「記紀神話の成立」(『岩波講座日本歴史2』1975年、300~303頁))
着眼点が3つあります。
① 『紀』神代紀第9段一書第2にみえる、東国の檝取(かとり)の地に在す斎主(いわいぬし)の神とは、『延喜式』春日祭祝詞に「香取坐伊波比主命」とみえる、香取神宮(千葉県香取市香取)を示します。
香取の神は、倭文神建葉槌と天香香背男の2神とどのような関係にあったのか。
文脈から推測すると、香取の神は、天香香背男の神威を鎮圧するための斎主であったと思われます。
では、なぜ、斎主の神は香取に祀られたのか、その時、鹿島の地はどのような状態にあったのか。
斎主の神が香取に祀られたのは、近隣で天香香背男の神威が暴走していたことを示し、また、鹿島の地に既に武甕槌神が祀られていたのならば、そのことが書かれるはずで(香取と鹿島の2神が協力して天香香背男退治にあたったとか)、そうではなかったと思われます。
可能性として、天香香背男の神威が奮っていたのは鹿島の地であり、そこを祓うために、対岸の香取を神地として、倭文神建葉槌と近しい神が祀られたというような状況が想像されます。
② 『姓氏録』『旧事紀』に、天背男がみえます。
天香香背男の「香香(かか)」は「輝く・赫く(かかやく)」、「背男」は「兄男」の意とされます。(岩波文庫『日本書紀(1)』1994年、121頁)
天背男と天香香背男は同神の可能性があります。
天背男後裔氏族は、山背国と尾張国に認められ、「久我」の地名と深く関わります。(→ 角凝と天背男・久我)
③ 大甕神社(茨城県日立市大みか町)に注目します。
社伝によると、大甕神社は、元禄8年(1695)に、石名坂村の社地(現社地の西方250m)から、宿魂石の上に移されたといい、宿魂石について次のような伝説があります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):茨城県:日立市>久慈村>大甕神社)
昔、鹿島の武甕槌と香取の経津主が常陸国経略の軍を進めた時、この地域一帯を支配する香香背男が激しく抵抗した。香香背男は勝ち誇って巨岩と化し、勢いは天をも突破するかと思われたが、静の里で機織を教えていた建葉槌が駆けつけ、鉄の靴(あるいは金の靴)で巨岩を蹴飛ばすと、岩は砕けて飛び散り、香香背男は血を吐いて死んだ。飛び散った岩は、石神(茨城県東海村)・石塚(茨城県城里町)・石井(茨城県笠間市石井)に落下した。また1つは海中に落下し大磯となった。
鎮座地は、久慈川・茂宮川河口の北岸、多賀山地丘陵南端縁に位置し、約1.5km東の海岸線まで海岸段丘が広がり、海洋系勢力の奉祭神であったことが窺われます。
宿魂石のかけらが海中に落下したという「大磯」は、久慈漁港の東沖合2kmの地点にある磯で、海神をめぐる童子の伝説があることもそうした性格を示します。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):茨城県:日立市>久慈村>大磯)
天香香背男を退治した倭文神建葉槌は、『延喜式』常陸国久慈郡に名神大社としてみえる静神社(茨城県那珂市静)(大甕神社の西方17km)とされます。
また、大甕神社の北西6.5kmに、『常陸国風土記』にみえる長幡部神社(茨城県常陸太田市幡町)があり、倭文神建葉槌と天香香背男の伝承の背景に、海岸部の海洋系勢力と内陸部の機織り勢力の対立が推測されます。