丹波国桑田郡の倭彦王と「玖賀」

『紀』継体即位前紀に、武烈天皇の没後、後継の大王が不在となった時、丹波国桑田郡の倭彦王に大王となるよう頼みに行った記述がみえます。

壬子に、大伴金村大連議りて曰はく、

「方に今絶えて継嗣無し。天下、何の所にか心を繋けむ。

 古より今に迄るまでに、禍斯に由りて起る。

 今足仲彦天皇の五世の孫倭彦王、丹波国の桑田郡に在す。

 請ふ、試に兵杖を設けて、乗輿を夾み衛りて、

 就きて迎へ奉りて、立てて人主としまつらむ」といふ。

大臣・大連等、一に皆随ひて、迎へ奉ること、計の如し。

是に、倭彦王、遙に迎へたてまつる兵を望りて、懼然りて、色失りぬ。

依りて山壑に遁りて、詣せむ所を知らず。

倭彦王を大王とする計画は、王が逃げ出して失敗し、その後、越前三国から継体天皇が招かれて即位します。

なぜ、王権の重臣は、倭彦王を大王に推戴しようとしたのか。

丹波国桑田郡に関わる「玖賀」に注目します。

『紀』仁徳紀16年7月条にみえる「桑田玖賀媛」の桑田は、丹波国桑田郡と解され、桑田郡と「玖賀」の繋がりがうかがわれ、『記』崇神記の「丹波国の玖賀耳之御笠」の「玖賀」も同じものを示すのではないかと思われます。

「玖賀」について、山城国乙訓郡の「久我」に注目します。

「久我」は、天背男を祖神とする勢力の本拠地であり、山城国乙訓郡のほかでは、尾張国中島郡・海部郡に顕著な分布がみられ、これらの郡の特性から、尾張連と密接に関わる勢力と推察されます。(→ 山城国の天背男後裔氏族)(→ 尾張国中島郡の天背男後裔氏族

倭彦王推戴計画失敗後、大王に即位した継体が、楠葉・筒城(綴喜)・弟国(乙訓)の3箇所を王宮としたこと、尾張連の女性を妃としたこともこのことに関わるかと思います。(→ 樟葉宮・筒城宮・弟国宮

武烈天皇の没後、後継王が不在となったのは、子がなかったためではなく、倭国の広域に隆盛する「玖賀」(天背男)を掌握する力量を持つ人物がいなかったためではないかと思います。

『紀』神代紀第9段にみえる、天の悪しき神、天香香背男の話もこのことに関わるかと想像します。

王権は、「玖賀」と深く関わる桑田郡の有力者に「玖賀」の掌握を期待した可能性があります。

『延喜式』神名帳の丹波国桑田郡に名神大社として「出雲神社」「小川月神社」がみえ、2社の祭神の出雲と日向の属性は、尾張連の祖神火明と奉祭する草薙剣と関わるのではないかと思われます。(→ 丹波国桑田郡の出雲神・月神

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