5世紀末の顕宗、仁賢、武烈の3王について注目点を6つ示します。
① 顕宗・仁賢の兄弟関係の変化
顕宗・仁賢の兄弟は、雄略天皇に殺された市辺押磐皇子の子で、父の死後、各地を転々としていたところを、清寧天皇の没後、後継王が不在となったとき、播磨の志染で偶然発見され、弟、兄の順で即位します。
『記』『紀』のなかでも、継体天皇と同じくらい特異な即位の物語といえます。
履中 ├──市辺押磐皇子 葛城襲津彦──葦田宿禰─┬─黒媛 ├─┬─億計(仁賢) │ │ └─弘計(顕宗) │ │ └─蟻臣──荑媛
顕宗・仁賢は、祖父、父と2世代にわたり葛城襲津彦後裔の葦田宿禰の一族と婚姻関係を結び、密接な関係を持ちます。(→ 顕宗・仁賢の系譜と葦田宿禰)
いっぽう、后妃・陵墓・王宮から、顕宗の支持勢力はその後も片岡の葦田宿禰とみられますが、仁賢は、片岡に敵対する、石上・春日の物部連・春日臣によって支持されたと思われます。
顕宗・仁賢の物語では、顕宗の即位までは「行動的な弟(顕宗)」が「従順な兄(仁賢)」をリードし、顕宗の即位後は「暴走する弟」を「諫める兄」という構図となり、顕宗の没後は、仁賢により顕宗の后が自死し、兄弟関係が決定的に悪化するという変化がみられます。(→ 顕宗・仁賢の兄弟関係の変化)
顕宗・仁賢の物語の背後に、片岡と春日の2地域勢力の対立が窺われます。
② 「小泊瀬稚鷦鷯」
顕宗・仁賢の後に即位した武烈は、『紀』に、悪逆の限りを尽くした暴君として記されます。
しかし、武烈の諱の「小泊瀬稚鷦鷯」の「小泊瀬」は雄略の「大泊瀬」に、「稚鷦鷯」は仁徳の「大鷦鷯」に因むもので、仁徳・雄略の2大聖王の名を含むのは何故なのかという問題があります。
③ 顕宗・武烈と片岡
顕宗・武烈の2王の陵墓は「傍丘磐杯丘陵」と全く同じ名称であり、さらに、当該期の春日和珥の后妃の特殊な血統から2王だけが外されるという共通点がみられます。(→ 和珥春日の后妃)(→ 顕宗・武烈の后妃と陵墓)
春日和珥の后妃の血統は石上・春日の勢力が主導するもので、2王は、春日の勢力とは敵対関係にあり、片岡の勢力と近しい関係にあったことが示されます。
また、平群臣を討伐した大王について、『紀』は武烈、『記』は顕宗と記し、『記』『紀』のあいだで2王の混交がみられ、「傍丘磐杯丘陵」とともに注目されます。
④ 片岡・平群・茅渟
平群臣は、茅渟の紀臣・坂本臣と密接な関係にあったことが系譜や平群坐紀氏神社の所在からわかります。
また、平群谷を流れる竜田川は、片岡を流れる葛下川と同地点で大和川に流入しており、平群臣と葦田宿禰の2勢力は地域的に一体関係にあったとみられ、顕宗・武烈による平群臣討伐は、奈良盆地西南部勢力の分裂といえます。
いっぽう、茅渟の勢力にかんしても、5世紀後半に、紀臣が分裂、坂本臣が滅亡したことが『紀』にみえ、片岡・平群・茅渟の勢力圏のなかで抗争が生じ、一部勢力による専制化が窺われます。
⑤ 鉄の精錬と鍛造勢力
顕宗・仁賢を播磨で発見した伊予来目部小楯が報賞として「山部連」を賜姓されて「山官」に任じられたことが『紀』にみえます。
「山官」は、鉄の精錬と鍛造の技術集団である「山部」を統轄者であり、「吉備臣を以て副として、山守辺を以て民とす」と記されることから、星川皇子の乱の後吉備から没収した「山部」を支配下に置いたことがわかります。
顕宗・仁賢が発見された志染は、忍海部造など「山部」の拠点であり、雄略朝までは吉備の勢力の支配下にあったとみられます。
2王発見の物語は、王権による吉備の「山部」の掌握を象徴的に描いていると解釈されます。(→ 伊予来目部小楯と播磨志染)
また、顕宗・仁賢の物語のなかに、近江国蒲生郡の「山部」の掌握も窺われます。
「狭狭城山君倭帒宿禰」の妹の功により、近江国蒲生郡の来田綿蚊屋野で、雄略に殺された顕宗・仁賢の父市辺押磐皇子の遺骨が見つかります。
市辺押磐皇子の謀殺に荷担した「狭狭城山君韓帒宿禰」は、罰として墓守となって山部連の支配下に置かれ、「狭狭城山君倭帒宿禰」は妹の手柄により「狭狭城山君」を賜姓されたことが、『紀』にみえます。
一連の話は、蒲生郡の郡領氏族の佐々貴山君の起源伝承の体裁をとりますが、当該勢力が2つに分裂し、一方が大王側に付いたという物語は、佐々貴山君の統轄する蒲生郡の「山部」が大王の直接支配下に組み込まれたことを象徴的に描いていると思われます。(→ 佐々貴山君の起源伝承)
⑥ 顕宗朝の月神祭祀
『紀』顕宗紀に月神・日神祭祀の記述がみえます。
日神祭祀に関しては内容がなく主眼は月神の祭祀とみられ、月神は日向の隼人の神であることから、当該期に王権による日向の隼人の神の奉祭が開始されたことを示します。(→ 『紀』顕宗紀の月神・日神祭祀)
①〜⑥から、5世紀末の顕宗、仁賢、武烈の3王の時代に、片岡・平群・茅渟の勢力圏のなかで抗争が生じ、一旦、片岡が専制化したものの継続せず、継体が登場した時には、石上・春日の勢力がとって代わったという大きな流れが窺われます。
また、顕宗、仁賢、武烈の3王についての記述は、『記』『紀』神武段・崇神段の伝承と様々な点で相関性がみられます。
吉備の鉄の掌握は、吉備の地域伝承では吉備津彦の事績とされ、『紀』崇神紀には、吉備津彦による出雲討伐が記されます。
八岐大蛇神話・石上神宮起源伝承では吉備と出雲の鉄の掌握は一体性をもって描かれています。
吉備津彦は孝霊天皇の皇子で、孝霊天皇の陵墓は「片丘馬坂陵」であり、『延喜式』に記される片岡の陵墓は、顕宗・武烈・孝霊の3天皇と「片岡葦田墓」の茅渟王のみです。
『紀』神武紀の孔舎衛坂の戦いは、茅渟と深く関わる兄の彦五瀬が亡くなって、石上の物部連祖饒速日が側近となり、茅渟から石上への移行の構図が示されています。
顕宗朝の月神祭祀は、日向と顕宗の支持勢力関係を窺わせますが、『記』『紀』には、神武没後に日向の妃の子手研耳が「片丘」で討伐された話がみえます。
また、『紀』崇神紀にみえる三輪山の大物主神祭祀で中心的役割を担ったのは茅渟の出身の大田田根子です。
『記』『紀』神武段・崇神段に、5世紀末と同様、片岡・茅渟と石上・春日の構図がみられることに注目します。