ヤマトタケル伝承と継体

ヤマトタケル伝承は、次のような点において継体との関係が認められます。

① ヤマトタケルの后は、『紀』景行紀51年8月条に両道入姫皇女、『記』景行記に布多遅能伊理毘売と記され、『記』垂仁系譜に、垂仁天皇と山代大国之淵女弟刈羽田刀弁の子として、石衝別王・石衝毘売がみえ、石衝毘売の亦の名が布多遅能伊理毘売とあります。

『上宮記』逸文系譜によると、石衝別王(伊波都久和希)は、継体の母系の祖なので、ヤマトタケルの后は、継体母系の祖の妹にあたります。(→ 三尾君の始祖系譜)(→ 『上宮記』逸文

② ヤマトタケルの兄、大碓命が美濃国造の姉妹と通じた話が『記』『紀』にみえます。

『記』は、姉妹の妹との子、押黒弟日子王を、牟宜都君等祖とし、『紀』は、東国征討を恐れて逃げた大碓命が美濃に封ぜられ、牟義公・守公の祖となったと記します。

牟義公は、牟宜都君・牟義都君とも表記され、美濃北部を拠点とする氏族ですが、『上宮記』逸文系譜に、継体の父、汙斯王の母は、牟義都国造の娘とあります。(→ 大碓命後裔氏族の牟義公・守君)(→ 『上宮記』逸文

③ ヤマトタケルの妃、弟橘媛について、『紀』景行紀40年是歳条に、穂積氏忍山宿禰の女(むすめ)とあります。

「穂積氏忍山宿禰」は、『紀』継体紀6年4月条・6年12月条・7年6月条・23年3月条にみえる「穂積臣押山」に酷似します。(→ 『紀』景行紀の穂積氏忍山宿禰)(→ 『紀』継体紀の穂積臣押山

④ ヤマトタケルは、伊吹山の神による氷雨を浴びて死に至りました。

『紀』に「近江の五十葺山」「胆吹山」、『記』に「伊服岐能山」と記される伊吹山は、伊吹山地南端の主峰で、古来、山岳信仰の対象とされました。

山頂部は、近江・美濃にまたがりますが、信仰の主たる拠点は、近江側の山腹にあり、仁寿年中(851~854)に入山した沙門三修を起源とする観音護国寺・弥高護国寺・太平護国寺・長尾護国寺の四護国寺が著名です。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)滋賀県:坂田郡>伊吹町>伊吹山)

古代の伊吹山と一義的に関係するのは、継体父系の近江国坂田郡の勢力といえます。

⑤ 伊吹山で氷雨を浴びたヤマトタケルは、『紀』に「居醒泉(ゐさめがゐ」、『記』に「玉倉部の清水」「居寤清水」と記される山麓の清水で一息つきました。

「玉倉部」について、『紀』天武紀元(672)年7月2日条に、壬申の乱の最初の衝突地として「玉倉部邑」がみえ、滋賀県米原市醒井、米原市大清水、岐阜県関ヶ原町玉などに比定されます。

醒井は東山道(中山道)、大清水・玉は北国脇往還に沿い、いずれも要衝にあたります。

醒井・大清水は近江国坂田郡、玉は美濃国不破郡の近江国坂田郡との国境近くに位置し、関係勢力は④と同じく近江国坂田郡とみられます。

⑥ ヤマトタケルは、尾張氏の女(むすめ)宮簀媛と結婚し、尾張に草薙剣を置いて伊吹山の神を討伐しに出かけ、能褒野で亡くなります。

いっぽう、継体は、尾張連草香女目子媛を妃としました。

生育地の越前出身ではありませんが、后である手白香皇女より前に婚姻し、子2人が後継の大王となっていることから、継体即位事情に深く絡むことが推測されます。

①〜⑥のような、ヤマトタケルと継体の共通要素について、ヤマトタケル伝承が「雪だるま式」に何段階かの過程を経て形成されるなかで、息長氏などの関与があったと考えられています。(大橋信弥「再び近江における息長氏の勢力について」(『古代豪族と渡来人』2004年))

しかし、継体の父系・母系・側近・妃と多岐にわたる相関性は、ヤマトタケル伝承が一括りに継体に関わる寓話である可能性を示します。

注目されるのは、ヤマトタケルが継体父系の象徴である伊吹山の神によって殺されたという点であり、いっぽうで、その他の属性は共有されています。

継体がヤマトタケルに象徴される対立勢力を倒して権力基盤を継承したというようなことが想像されます。

◇ ヤマトタケル終焉の地である伊勢国鈴鹿郡・河曲郡は、継体父系の近江国坂田郡と密接な関係にある。(→ 伊勢国鈴鹿郡・河曲郡と穂積臣押山

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