『記』応神系譜にみえる品它真若王の本拠地について、「蓬蔂丘の誉田陵」(応神陵・『紀』雄略紀)の所在する、河内国志紀郡の「誉田」とする説があります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):大阪府:羽曳野市>誉田村)
『記』に、品它真若王の母は、尾張連祖建伊那陀宿禰女志理都紀斗売とあり、建伊那陀宿禰は、「天孫本紀」の尾張氏系譜に建稲種命とみえ、尾張国造の祖である乎止與の子とされます。
どのようにして河内志紀と尾張の勢力が婚姻関係を結ぶにいたったのか注目されます。
5世紀代の河内国志紀郡の有力在地勢力は、『記』雄略段に堅魚木を上げた大邸宅の話がみえる志紀県主とされ、『記』神武系譜の神八井耳の後裔氏族に名がみえます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):大阪府:河内国>志紀郡)
同系譜にみえる尾張丹羽君に注目します。
尾張丹羽君は、尾張国丹羽郡丹羽郷(愛知県一宮市丹羽に比定)を本拠地とする氏族であり、『続日本後紀』承和8年(841)4月乙巳条に、次のようにみえます。
右京人勘解由主典正六位上県主前利連氏益賜姓県連
神倭磐余彦天皇第三皇子神八井耳命之後也
神八井耳後裔氏族の「県主前利連」に「県連」が賜姓されたと記されます。
「県主前利連」の「前利」は、丹羽郡前刀(さきと)郷のことであり、『延喜式』神名帳にみえる前刀神社の鎮座地である愛知県丹羽郡扶桑町斎藤を拠点とする勢力と推測されます。
また、「県主前利連」「県連」の「県」は、丹羽県とみられます。
「天孫本紀」の尾張氏系譜の建稲種命の項に、次のように記されます。
此命 邇波県君祖大荒田女子玉姫為妻 生二男四女
建伊那陀宿禰が「邇波県君祖大荒田」の娘と婚姻関係を結んでいます。
「邇波県君祖大荒田」は、『阿蘇家略系譜』に「是県連、県主前利連、島田臣、伊勢船木臣、丹羽臣等祖也」とある「大荒男命」と同一人物と考えられています。(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 考証篇第二』1982年、278~279頁)
建伊那陀宿禰の婚姻相手の父「大荒田」は、県連、県主前利連、丹羽臣の祖であり、建伊那陀宿禰は、丹羽郡の神八井耳後裔勢力と密接な関係にあったことがわかります。
建伊那陀宿禰は、丹羽郡の神八井耳後裔勢力を通じて、同じ神八井耳後裔の河内国志紀郡の志紀県主と繋がったのではないかと思われます。
次に、『記』神武系譜の神八井耳の後裔氏族に名がみえる島田臣に注目します。
島田臣は、『阿蘇家略系譜』の「大荒男命」後裔に名を連ね、県連、県主前利連、丹羽臣と近い関係にあります。
島田臣について、『姓氏録』右京皇別下に次のように記されます。
多朝臣同祖。神八井耳命の後なり。
五世孫、武恵賀前命の孫、仲臣子上、稚足彦天皇〈諡は成務〉の御代に、
尾張国の島田上下の二県に悪神有り。
子上を遣して平服けて、復命まをす日、号を島田臣と賜ひき、
「尾張国の島田上下の二県」は、『和名抄』の尾張国海部郡嶋田郷とされ、愛知県愛西市勝幡町、もしくは、あま市七宝町・美和町南部から津島市東部一帯に比定されます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):愛知県:尾張国>海部郡>嶋田郷)
いっぽう、『延喜式』神名帳に、尾張国中島郡の名神大社として「太神社」がみえ、愛知県一宮市大和町於保に鎮座する大神社に比定され、祭神は神八井耳です。
近世の於保村の南東に接して、島村(現在の稲沢市島本郷町・島新田町・島下畑町)があり(「島氏永」駅の「島」です)、「島田上下の二県」のうち1つは中島郡於保・島の地域であった可能性があります。
佐伯有清氏は、島田臣の祖としてみえる「仲臣子上」について、『阿蘇家略系譜』に「武恵賀前命ー建借馬命〈志賀高穴穂大宮朝定賜仲国造〉ー武沼田命〈志賀高穴穂大宮朝定賜長狭国造〉ー那珂乃子上命」とみえる「那珂乃子上命」と同一人物と考えられています。
さらに、「那珂乃子上命」の「那珂」について、仲国造が『記』神武系譜に島田臣と同祖関係にあり、仲国造の祖である建借馬が『阿蘇家略系譜』に「那珂乃子上命」の祖父としてみえることから、仲国造の「仲」と関わると推測されます。(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 考証篇第二』1982年、276~279頁)
先にみた『阿蘇家略系譜』に「是県連、県主前利連、島田臣、伊勢船木臣、丹羽臣等祖也」とある「大荒男命」は「那珂乃子上命」の子です。
つまり、建伊那陀宿禰と姻戚関係を結んだ尾張国丹羽郡勢力の「大荒男(大荒田)」「那珂乃子上(仲臣子上)」の父子は、常陸国の仲国造と近い関係にあったと推測され、建伊那陀宿禰の年代観に重要な示唆を与えます。(→ 常道仲国造の祖「建借間」)
また、島田臣等の祖「武恵賀前」の「恵賀」について、『延喜式』に「恵賀藻伏崗陵 軽島明宮御宇応神天皇、在河内国志紀郡、兆域東西五町、南北五町、陵戸二烟、守戸三烟」、『記』に「御陵は、川内の恵賀の裳伏岡に在り」とあるように、応神陵の所在地の「恵賀」と一致し、やはり、河内志紀と神八井耳の深い関係が窺われます。