『記』『紀』に、5世紀前半の大王の即位前に起きた内乱の記述が複数みえますが、そのなかで、応神天皇と履中天皇の即位前内乱のあいだに、不可解ともいえる幾つもの共通点が認められます。
① 磐余稚桜宮
『紀』神功紀3年正月条に、「誉田別皇子を立てて、皇太子としたまふ。因りて磐余に都つくる。〈是をば、若桜宮と謂ふ〉」、『紀』神功紀69年4月条に、「皇太后、稚桜宮に崩りましぬ。〈時に年一百歳〉」とみえるように、神功皇后の王宮は「磐余稚桜宮」とされます。
いっぽう、『紀』履中紀3年11月条に、次のようにみえます。
天皇、両枝船を磐余市磯池に泛べたまふ。
皇妃と各分ち乗りて遊宴びたまふ。
膳臣余磯、酒献る。
時に桜の花、御盞に落れり。
天皇、異びたまひて、則ち物部長真胆連を召して、詔して曰はく、
「是の花、非時にして来れり。其れ何処の花ならむ。
汝、自ら求むべし」とのたまふ。
是に、長真胆連、独花を尋ねて、掖上室山に獲て、献る。
天皇、其の希有しきことを歓びて、即ち宮の名としたまふ。
故、磐余稚桜宮と謂す。
其れ此の縁なり。
履中の王宮は、遊宴に献上された桜の花に因んで「磐余稚桜宮」と名付けられたとありますが、祖父の母の宮号と同名であることがなぜ言及されないのか不可解に思われます。
② 倭直・阿曇連と明石海峡
応神即位前の内乱の時、麛坂王と忍熊王が九州から来る応神を阻もうと、船を並べて明石海峡を封鎖したことが『紀』神功紀元年2月条に記されます。
「国造本紀」に、明石国造は大倭直同祖とみえ、『紀』履中紀によると、淡路島北端の野島の海人は阿曇連配下であったことから、明石海峡の制海権は、倭直と阿曇連が有していたとみられます。
明石海峡封鎖作戦は、倭直と阿曇連が麛坂王・忍熊王の配下にあったことを示します。
いっぽう、履中即位時の内乱において、倭直と阿曇連は、履中に敵対した住吉仲皇子の配下の勢力としてみえており、履中と応神の即位前内乱の敗者が一致します。
③ 住吉
履中即位前内乱の本質は、履中による住吉津の支配権の簒奪とみられます。(→ 住吉仲皇子の乱)
いっぽう、応神即位前の内乱では、菟餓野の祈狩で麛坂王が猪に殺された後、忍熊王が明石海峡を離れて住吉に戦陣を構えて応神を待ち構えたことがみえ、住吉は、その後、応神の誕生と即位を予言した住吉神の鎮座地となることから、住吉津の支配権が麛坂王・忍熊王から応神へと移行したものと思われます。
2つの内乱に、住吉津の支配権の変化が描かれていることが共通します。
④ 阿曇連と津守連
『記』『紀』のイザナキの禊ぎの記述に、阿曇連の奉祭する海神3神と津守連の奉祭する住吉3神がペアで誕生したことがみえます。
また、『紀』仲哀紀・神功紀において、住吉神が顕れて応神の誕生と即位を予言した香椎は、阿曇連の拠点である志賀島と地理的に一体的関係にあり、香椎宮と阿曇連のあいだにも密接な関係が認められます。(→ 津守連と阿曇連)
履中と応神の即位時の内乱の主要素が不可解なかたちで繋がりを持つことがわかります。
⑤ 「海部氏系図」の武振熊・倭宿禰
丹後国与謝郡の籠神社所蔵の、火明(ホアカリ)を始祖とする「海部氏系図」に、倭宿禰命と健振熊宿禰がみえ、前者は、倭直祖椎根津彦、後者は、応神即位前の内乱において応神側の将軍であった和珥臣祖武振熊ではないかという説があります。
また、始祖の火明(ホアカリ)は、住吉神を奉祭する津守連の祖神であり、「海部氏系図」は、①〜④の属性との重複が色濃く認められます。(→ 「海部氏系図」と難波根子武振熊・倭直)
応神と履中の即位前内乱の記述は、同じ歴史的事実を描いている可能性があります。