『記』『紀』に、懐妊した神功皇后が新羅外征に際し産気を抑えるため腰に挟んだという「石」、いわゆる「鎮懐石」の話がみえます。
「石」の所在について、『紀』神功摂政前紀に「其の石は、今伊覩県の道の辺に在り」、『記』に「其の御裳に纏ける石は、筑紫国の伊斗村に在り」と記されます。
また、『釈日本紀』所引『筑紫風土記』逸文に「逸都の県。子饗の原。石、両顆あり」、『万葉集』(5-813)に「筑前国怡土郡深江村子負の原に、海に臨む丘の上に、二つの石有り」と書かれています。
故地とされる、福岡県糸島市二丈深江に、鎮懐石八幡宮が鎮座します。
応神の生地について、『紀』神功摂政前紀12月条に「宇瀰」、『記』に「宇美」、『筑紫風土記』逸文に「芋湄野(うみの)」、『紀』応神紀に「筑紫の蚊田」とあります。
「宇瀰」「宇美」「芋湄野(うみの)」は、福岡県宇美町宇美に鎮座する宇美八幡宮の地に比定されます。
「蚊田」は、宇美の旧名とするのが通説となっていますが、筑後国御井郡賀駄郷とする説、鎮懐石八幡宮に近い福岡県糸島市前原町川付の宇美八幡宮の地とする説もあります。