『記』『紀』に、去来穂別皇子(履中天皇)と住吉仲皇子の争いの記述がみえます。
『紀』によると、住吉仲皇子は、去来穂別皇子の婚約者の羽田矢代宿禰の娘の黒媛の家に、婚礼の日取りを伝えるために出かけて、去来穂別皇子の名を騙って黒媛と通じました。
残された手鈴から不義が露見し、立場が危うくなった住吉仲皇子は、去来穂別皇子を殺そうと難波の家を兵で囲みます。
去来穂別皇子は馬に乗って脱出し、飛鳥山で出会った少女に、兵が潜む大坂山(穴虫峠)を避けて当摩径(竹内峠)を行くよう勧められますが、兵を整えて、竜田山(亀瀬峠)を越えます。
道中、住吉仲皇子と親しかった阿曇連浜子と倭直吾子籠が攻撃を仕掛けます。
竜田山では、阿曇連浜子の配下の淡路の野嶋の海人が襲いますが打ち負かして、攪食の栗林では、攻撃しようと待ち構えていた倭直吾子籠が恐れをなして寝返り、妹の日之媛を献上します。
石上振神宮に入った去来穂別皇子は、同母弟の瑞歯別皇子に住吉仲皇子殺害を命じ、瑞歯別皇子は、住吉仲皇子に近習する隼人の刺領巾を使って暗殺を成功させます。
その後、去来穂別皇子は磐余稚桜宮で即位し、阿曇連浜子を捕らえ墨刑に処して、配下の淡路の野嶋の海人等を倭の蔣代屯倉で使役にあたらせました。
住吉仲皇子の乱にかんして、次のような点に注目します
① 住吉仲皇子と倭直・阿曇連
『紀』仁徳紀62年5月条に、倭直吾子籠による造船、『紀』応神紀3年11月条に、阿曇連祖大浜宿禰が「海人の宰」となったことがみえ、倭直と阿曇連は、ともに海上交通に関わる勢力とみられます。(倭直と阿曇連は、明石海峡・難波津・越後頸城の奴奈川(姫川)でもペアでの活動が確認されます)
いっぽう、住吉仲皇子は、住吉を本拠とする有力者とみられます。
細井川の旧河口部の天満砂州と上町台地のあいだに入江が形成された古代の住吉は海上交通の要衝であり、湊の王の住吉仲皇子のもとで倭直・阿曇連が活動していたことが窺われ、内乱の本質は、履中による住吉津の支配権簒奪とみられます。
『紀』履中紀6年2月条に、履中の嬪となった鯽魚磯別王の女太姫郎姫・高鶴郎姫が兄の鷲住王を恋しがるので、王宮へ参じるように命令したところ住吉邑に隠って応じなかったことがみえます。
乱の後、住吉津の有力者の子女が履中に差し出され、有力者に根強い反感があったことが窺われます。
② 筑紫3女神の怒り
『紀』履中紀5年3月条・9月条・10月条に、筑紫3神の祟りで、后の黒媛が命を落とす話がみえます。
筑紫3神が宮中に現れ、「何ぞ我が民を奪ひたまふ。吾、今汝に慚みせむ」と怒りを顕わにし、履中が無視すると、后が突然亡くなりました。
履中は、神の民を奪った犯人として車持君を捕らえ、尼崎の海岸部の砂洲とみられる「長渚崎」で禊ぎをさせ、民を神に返して収拾を図ったと記されます。
一見して①と②は無関係の話と思われますが、応神誕生伝承とウケヒ神話を媒介とすると繋がりが認められます。
応神誕生伝承と①について、主要素(磐余若桜宮・住吉・明石海峡)が不可解なほど一致します。(→ 履中即位前内乱と応神誕生伝承の共通点)
また、応神誕生伝承では、住吉大神と天津彦根が密接に関係し、ウケヒ神話では、筑紫3女神と天津彦根の関係が描かれます。
①と②と応神誕生伝承、ウケヒ神話は一体的な話であり、要素を分析して再構成することで全体像が把握できると考えます。(5世紀前半の史的事実ではない可能性があります)
①②ともに海の勢力が描かれ、また、①に倭直による日之媛の献上がみえ、②で犯人とされた車持君の始祖の豊城入彦も日神に関わる(妹の豊鍬入姫は、伊勢内宮遷座以前の日神の祭祀者)ことから、海の勢力の奉祭する日神が注目点となります。