『紀』神功紀元年2月条に、住吉大社の起源についての記述がみえます。
神功皇后が、瀬戸内海を難波へ向けて航海していると、船が海上で廻って進めなくなってしまったので、務古水門(武庫川河口域)に戻り、占うと、表筒男・中筒男・底筒男の住吉3神が、「吾が和魂をば大津の渟中倉の長峡に居さしむべし。便ち因りて往来ふ船を看さむ」と言ったので、そのとおりに祭祀したところ、無事航海出来たことが書かれています。
「大津の渟中倉の長峡」とは、細井川の旧河口部、天満砂州と上町台地のあいだに入江が形成され、天然の良港となっていた、古代の住吉を示します。
また、『摂津国風土記』逸文(前田家本『釈日本紀』巻6)に、次のような記述がみえます。
住吉と称ふ所以は、昔、息長帯比売の天皇の世、
住吉の大神の現出れまして、天の下を巡行り、
住むに可き国を覓ぎたまひけり。
時に沼名椋の長岡の前に到りまし、
〈前とは、今の神宮の南なる辺、これその地なり。〉
乃ち謂りたまはく「こは実に住むに可き国なり」とのりたまひ、
遂に讃称して「真住み吉き住み吉き国」と云りたまひけり。
仍ち神社を定めつ。
今、俗略きて、直に須美乃叡と称ふ。
住吉大社において、住吉大神を祭祀する氏族は、津守連です。
津守宿禰(旧姓連)について、『姓氏録』摂津国神別に、「尾張宿禰同祖 火明命の八世孫、大御日足尼の後なり」とあり、住吉大神の神格は、火明(ホアカリ)と関わることが推測されます。
また、『紀』神功紀元年2月条では、住吉大社とともに、広田神社・生田神社・長田神社の起源も記されています。(→ 広田神社・生田神社・長田神社の起源)