『住吉大社神代記』「船木等本記」に、船木の遠祖、大田田命を祖とする系譜がみえます。
大田田命の3世孫(曽孫)である、木西川(きせつ)比古命について、次のような系譜が記されます。
木西川比古命 ├───┬─田田根足尼命 │ │ ├─┬──乎川女乃命 │ │ │ ├──馬手乃命 │ │ │ └──口以乃命 │ │ 止移奈比女乃命 │ │ │ └───牟賀足尼命 葛城阿佐川麻之伊刀比女乃命
木西川(きせつ)比古と葛城阿佐川麻(あさづま)之伊刀比女のあいだに生まれた、田田根足尼について、「古斯(こし)国の君に坐す」と記されます。
田田根足尼と止移奈(とやな)比女のあいだに生まれた、乎川女(をつめ)・馬手(まて)・口以(くちもち)について、「三柱は、古斯(こし)乃国の君等に在せり」と記されます。
葛城阿佐川麻(あさづま)之伊刀比女は、葛城の「朝妻」に住む女性とみられます。
「朝妻」は、『紀』仁徳紀22年正月条の歌に「朝嬬の避介(ひか)の小坂」、『紀』天武紀9年9月条に「朝嬬に幸す。因りて大山位より以下の馬を長柄杜に看す」とみえる土地であり、遺称地は、奈良県御所市朝妻とされます。
『姓氏録』山城国諸蕃の秦忌寸条に、弓月王らが「大和朝津間腋上」に到来したことが記され、「朝妻」は「掖上」を含む広域を示す地名であったという見解もあります。(→ 葛城の掖上)
「船木等本紀」の系譜に、葛城朝妻に住む女性の子が、越国に居住することがみえ、葛城と越に交流が存在したことが窺えます。
◇ 崇神妃、尾張大海媛は、葛城と関わる。(→ 尾張大海媛と大和国葛上郡・尾張国海部郡)『記』において、能登臣の祖が、尾張連祖意富阿麻比売(尾張大海媛)の子とされ、葛城と能登の関係が認められる。(→ 能登国造の系譜)