久延毘古後裔氏族

大和国城上郡の式内社である、神坐日向(みわにいますひむかい)神社は、大神神社の摂社として、本社の南西、御子森(みこのもり)とよばれる微高地に鎮座します。

『大三輪社勘文』(1712年成立)の引用する、『大神崇秘書』(1119年、従七位上山田首積善)に次のように記されます。

高宮亦曰上宮、在三輪山峯青垣山、無神殿有神杉、称奥杉是也、

神名帳云、大神坐日向神社一座、一所日本大国主命也、

孝昭天皇御宇御鎮座也、天皇元年四月何日〈上卯〉前夜半、

峯古大杉上有如日輪之火気、放光照山、其暁神天降、宮女託宣謂、

我日本大国主命也、今遷来此国也、

令山田吉川比古奉崇秘我広前云々、天皇依御託宣勅吉川比古命、

〈久延彦命八世孫川辺足尼之子也〉定高宮神主

三輪山山頂に鎮座する高宮(こうのみや)神社を、神坐日向神社にあて、祭祀者を、久延彦後裔の吉川比古命(山田吉川比古)とします。

また、『姓氏録』山城国神別に、神宮部造という氏族がみえ、次のように記されます。

葛木猪石岡に天下りませる神、天破命の後なり。

六世孫、吉足日命、

磯城瑞籬宮御宇〈諡は崇神〉天皇の御世に、天下に灾有りき。

因れ、吉足日命を遣して、

大物主神を斎き祭らしめたまひしかば、灾異即ち止みき。

天皇詔して曰はく、天下の灾消み、百姓福を得つ。

自今以後、宮能売神を為る可しとのたまふ。

仍りて姓を宮能売公と賜ひき。

然後、庚午年籍に、神宮部造と注せり。

さらに、『大三輪鎮座次第』(1226年成立)に、次のようにみえます。

腋上池心宮御宇天皇御世、神明憑吉足日命曰、吾国造大己貴命也、

太初己命之和魂取託八咫鏡、名曰倭大物主櫛瓺玉命、

鎮座大三輪神奈備云々、

令造瑞籬奉斎焉、随神託立瑞籬於大三輪山、

遣吉足日命令崇斎大己貴命、大物主神、

詔吉足日命、自今已後可為宮能売、是神宮部造先祖也

佐伯有清氏は、『大神崇秘書』にみえる「山田吉川比古」「吉川比古命」は、『姓氏録』『大三輪鎮座次第』にみえる、神宮部造祖吉足日命を示すといわれます。(佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇第三、1982年、438頁)

久延毘古後裔を名乗る氏族について、属性を整理してみると、『大神崇秘書』の山田吉川比古は、神坐日向神社の祭祀者であり、『姓氏録』の神宮部造祖吉足日命は、葛木猪石岡に天降りしており、三輪山と葛城の2地域と関係を持ちます。

久延毘古の後裔氏族が注目されるのは、久延毘古が少彦名神の眷属とみられ、少彦名神の本質を知る鍵といえるからです。(→ 少名毘古那神と久延毘古

『記』『紀』に、大己貴神は、少彦名神が常世に去り途方に暮れている時に、新しく現れた神(大己貴神の奇魂幸魂)を「御諸山の上」に祀ったことがみえます。(→ 大己貴・少彦名

少彦名神の代わりに大己貴神の分魂が「御諸山の上」に祀られたことを示しますが、その意味も時期も、同じ三輪山の大物主神祭祀・倭大国魂神祭祀との関係も不明です。

大己貴神と少彦名神を一体神とする史料も多くみられ、少彦名神の実像がつかめれば、「御諸山の上」の祭祀もあきらかになるかと思われます。

神坐日向神社は、「御諸山の上」と同所とみられ、『姓氏録』『大神崇秘書』『大三輪鎮座次第』にみえる久延毘古後裔氏族の断片的な動向は、当該氏族の「御諸山の上」の祭祀への関与を示唆します。

『姓氏録』左京神別中に、神宮部造と類似する名をもつ、宮部造という氏族がみえ、天背男の後裔とある。(→ 山城国の天背男後裔氏族


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