能登国造の系譜

『続日本紀』によると、養老2年(718)5月2日、越前国から羽咋・能登・鳳至・珠洲の4郡を割いて能登国が立国され、天平13年(741)12月10日、能登国は越中国に合併されましたが、天平勝宝9年(757)5月8日に再び分立、立国されました。

『記』に、崇神天皇と尾張連祖意富阿麻比売の子として「大入杵」がみえ、能登臣祖と記されます。

能登臣の本拠地について、雨の宮古墳群(石川県中能登町能登部上・西馬場)が注目されます。

雨の宮古墳群は、邑知地溝帯の西側に延びる眉丈山系の尾根筋、標高190mに所在し、古墳時代前期の能登地方の盟主墳とみられる、全長70mの前方後方墳の1号墳、全長70mの前方後円墳の2号墳と約30基の円墳から構成されます。

山麓に鎮座する能登部神社は、能登比古神と大入杵命を祭神とし、『延喜式』神名帳の能登国能登郡の能登生国玉比古神社の論社となっています。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):石川県:鹿島郡>鹿西町>上村>雨の宮古墳群、上村>能登部神社)

いっぽう、「国造本紀」に、能等国造について「活目帝皇子大入来命孫彦狭嶋命定賜国造」と記されます。

「活目帝皇子大入来命」について、「活目帝」は活目入彦五十狭茅、すなわち垂仁天皇ですが、「活目帝」は「御間城帝」の錯簡で、崇神系譜の「大入杵」を示すものと思われます。

尾張連祖意富阿麻比売の系譜が一義的に神八井耳に関係することから、「彦狭嶋」は、神八井耳系の常陸仲国造の祖である「彦狭島」と同一人物と思われます。(→ 尾張大海媛と神八井耳)(→ 常道仲国造の祖「建借間」

「彦狭島」の「狭島」は「鹿島」と同義であり、能登の「香島津」との関連が窺われます。

『万葉集』巻17に、天平20年越中守大伴家持が出挙の督励のため能登半島を巡行した際、「能登郡の香島津より発船して、熊来村を指して往く時に作る」として詠んだ2首がみえます。

「香島津」は、石川県七尾市の七尾港一帯に比定され、能登国の国津とみられます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):石川県:鹿島郡)

「彦狭島」は、日本列島各地の重要な港津を掌握していた痕跡が認められ、能登の「香島津」もその1つと推測されます。

また、「国造本紀」に、加宜国造について「能登国造同祖素都乃奈美留命」、高志深江国造について「道君同祖素都乃奈美留命」とあり、能登国造の祖は「素都乃奈美留」であり、道君と同祖関係にあるかのような記述がみえます。(→ 越の11国造

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