『記』神代記と『紀』神代紀第8段一書第6に、大己貴神と共に国作りをしてきた少彦名神が常世に去り、途方に暮れていた大己貴神のもとに、少彦名神の代わりともいうべき神が現れ、三輪山に祀られる話がみえます。(→ 大己貴と少彦名)
「少彦名神が常世に去る」とは何を意味するのでしょうか。
少彦名神の眷属と推測される久延彦の後裔氏族が、三輪山に神坐日向神社を奉祭していたという記録がありますが、そこから少彦名神の本質を探るのは難しいかと思われます。(→ 久延毘古後裔氏族)
『記』孝元系譜に、「少名日子建猪心」という人物がみえます。
「スクナビコ」を冠した「建猪心」という名を持っています。
『記』『紀』孝元系譜と『紀』景行紀3年2月条を比べて詳しく検討してみると、『紀』景行紀3年2月条に武内宿禰の父と記される「屋主忍男武雄心(亦の名武猪心)」と同一人物と推測されます。
『記』孝元系譜において、建内宿禰・味師内宿禰の父として大系譜の頂点に立つ「比古布都押之信」は、『紀』景行紀3年2月条からみると「屋主忍男武雄心」とあるべきですが、同じ孝元記の大彦系譜に「少名日子建猪心」を記載したため、重複を避けるため、「屋主忍男武雄心」を抽象化した観念として「比古布都押之信」を使用したと思われます。
本来的には、「屋主忍男武雄心」が建内宿禰・味師内宿禰の系譜の頂点にあったと考えます。(→ 屋主忍男武雄心と少名日子建猪心)
さて、建内宿禰・味師内宿禰の系譜は、前者が27氏族、後者が1氏族と片翼の様相ですが、これは、『紀』応神紀9年4月条にみえる武内(建内)宿禰と甘美内(味師内)宿禰の抗争により、前者が後者の基盤を吸収した結果と思われます。
当該事件は、『紀』の時系列からみると4世紀末頃の出来事ですが、武内宿禰の行状として記される『独筑紫を裂きて、三韓を招きて己に朝はしめて、遂に天下を有たむ』は、継体朝末の筑紫君磐井の行動とぴたりと一致します。
武内宿禰を助けた壱伎直について「国造本紀」に、磐井との関係が記されていることをみても、「磐井の乱」を描いている可能性が高いといえます。
これは、建内宿禰形成の主体を蘇我氏と考える見解とも符合します。(→ 武内宿禰と甘美内宿禰の対立伝承と磐井の乱)
甘美内宿禰の後裔氏族は山城綴喜の内臣のみ記されますが、本来的には、継体王宮の所在した楠葉・乙訓・綴喜など南山城・北摂津の勢力を広く含んでいたと推測されます。
「磐井の乱」の後、「屋主忍男武雄心」の統括する、武内宿禰(大和葛城の勢力)と甘美内宿禰(南山城・北摂津の勢力)の組織が崩壊したといえます。
それだけではなく、「国造本紀」や『姓氏録』に、高志国造(道君)の祖としてみえる「屋主男心」「彦屋主田心」も、「少名日子建猪心」「屋主忍男武雄心」と同一人物と思われます。(→ 彦屋主田心と道君)
「国造本紀」の越の11国造のうち、高志・高志深江・加宜・能登の道君系、三国・江沼・伊彌頭の武内宿禰系は、同じ「少名日子建猪心」「屋主忍男武雄心」傘下の勢力となります。
また、三尾君系の加我・羽咋は、三尾君が『記』『紀』垂仁系譜に、南山城のカニハタトベの子とあるので、つきつめると、「国造本紀」の越の11国造のうち、角鹿・久比岐を除く9国造が「少名日子建猪心」「屋主忍男武雄心」傘下の勢力であったことになります。
「磐井の乱」の後、王権の屋台骨ともいえる、葛城・南山城・越を結ぶ広域組織が崩壊し、継体王権は壊滅的状況に陥ったことが窺えます。
『紀』継体紀25年条注にみえる、辛亥年(531年)についての『百済本記』の伝聞記事は、この事件を示しているのではないかと思われます。(→ 継体紀25年条注の『百済本記』伝聞記事)
冒頭の「少彦名神が常世に去る」の意味とは、「少名日子建猪心」組織の崩壊を示すもので、王権は、三輪山に出雲系の神を奉祭することによって求心力の回復を図った可能性があると思います。
『記』神代記と『紀』神代紀第8段一書第6にみえる三輪山祭祀の時期は、6世紀第2四半期と推測されます。