味師内宿禰と山城国綴喜郡有智郷

『記』孝元記に、味師内宿禰についての系譜がみえます。

比古布都押之信命、

尾張連等が祖、意富那毘が妹、葛城之高千那毘売を娶りて、

生みし子は、味師内宿禰〈此は、山代の内臣が祖ぞ〉。

「山代の内臣」の「内(うち)」とは、『紀』雄略紀17年3月条の「内村」、天平年間(729~749)の智識優婆塞等貢進文(正倉院文書)にみえる「内郷」、『延喜式』神名帳の山城国綴喜郡の内神社の鎮座地、『和名抄』の山城国綴喜郡有智郷を指し、京都府八幡市内里に比定されます。

『記』孝元系譜において、味師内宿禰の後裔氏族が山代内臣1氏のみであるのに対し、兄の建内宿禰は後裔氏族27氏の大系譜を構成するのは、『紀』応神紀9年4月条にみえる、武内(建内)宿禰と甘美内(味師内)宿禰の抗争の結果によるものと思われるます。(→ 武内宿禰と甘美内宿禰の対立伝承と磐井の乱

山城国綴喜郡有智郷は、大住郷と隣接し、大住郷のものとされる山城国隼人計帳(正倉院文書)にも「内臣」がみえます。

味師内宿禰後裔勢力の拠点は、仁徳后葛城襲津彦女磐之媛の筒城宮、継体天皇の筒城宮、大住郷の隼人の集住地と重なります。(→ 葛城襲津彦女磐之媛と山城国綴喜郡)(→ 山城国綴喜郡の月読神社・樺井月神社

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