『紀』継体紀の編者が、編集の最終段階で、継体没年の年次を変更したことが知られています。
『紀』継体紀25年条の末尾に、編者による次のような注が記されます。
或る本に云はく、天皇、二十八年歳次甲寅に崩りましぬといふ。
而るを此に二十五年歳次辛亥に崩りましぬと云へるは、
百済本記を取りて文を為れるなり。
其の文に云へらく、太歳辛亥の三月に、軍進みて安羅に至りて、乞乇城を営る。
是の月に、高麗、其の王安を弑す。
又聞く、日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨りましぬといへり。
此に由りて言へば、辛亥の歳は、二十五年に当る。
後に勘校へむ者、知らむ。
継体紀の編者は、当初、「或本」により、継体没年を28年甲寅(534年)としていました。
しかし、『百済本記』に、辛亥(531年)3月のこととして「又聞く、日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨りましぬといへり」とあることを重視して、25年辛亥(531年)に変更しました。
続く安閑の即位年については、継体没年を534年甲寅とする年立てのまま変えず、安閑元年を534年甲寅とし(531~533年は空位)、宣化元年を536年丙辰、欽明元年を540年庚申としています。
『百済本記』の伝聞記事に関係して問題となるのは、『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』に、欽明朝を531年〜571年とする年立てがみられることです。
531年に、継体と2人の子(安閑・宣化)が亡くなり、同年に欽明が即位したのであれば、安閑・宣化朝は存在しないことになります。
いっぽう、『紀』継体紀に次のように、安閑・宣化朝を経て欽明が即位したことがみえます。
甲子に、皇后手白香皇女を立てて、内に脩教せしむ。
遂に一の男を生ましめたり。
是を天国排開広庭尊とす。
是嫡子にして幼年し。
二の兄治して後に、其の天下有す。
531年の「日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨りましぬ」については、次のように考えます。
527年に、緊迫した加耶情勢の対応のため、近江毛野臣の安羅派遣が決定されると、筑紫君磐井が阻止の行動に出ます。
これは、筑紫君の属する「大彦」組織の崩壊といえます。
さらに、531年に、近江毛野臣の外交が失敗し、倭国と親しかった南部加耶3国が新羅により滅ぼされると、倭王権内部で不満が爆発して、継体王権の屋台骨である、大和葛城・山城綴喜・越前・越中をつなぐ「少彦名」の組織が崩壊します。
『百済本記』の伝聞記事は、531年の時点で、「大彦」と「少彦名」の組織がともに崩壊し、継体王権が機能不全に陥ったこと(「大彦・少彦名ともに死す」)を誤解したものではないかと推測します。
(→ 武内宿禰と甘美内宿禰の対立伝承と磐井の乱)(→ 「少彦名」の年代観)
また、安閑と宣化の王宮・陵墓について、『紀』に次のようにみえます。 <( )のなかは比定地 >
大王 | 王宮 | 陵墓 |
安閑 | 勾金橋宮(奈良県橿原市曲川町) | 旧市高屋丘陵(大阪府羽曳野市古市) |
宣化 | 檜隈廬入野宮(奈良県明日香村檜前) | 身狭桃花鳥坂上陵(奈良県橿原市鳥屋町) |
勾金橋宮は、式内社宗我坐宗我都比古神社の至近、身狭桃花鳥坂上陵は、新沢千塚古墳群に隣接、檜隈廬入野宮は、東漢氏の拠点にあり、いずれも、蘇我氏の拠点に設置されています。
また、旧市高屋丘陵(高屋築山古墳)は、古市古墳群に属します。
2王即位に関与したのは、忍坂や摂津三島と関わりの深い継体関係勢力ではなく、欽明朝以降勢力を伸長する、蘇我氏であることが窺われます。
『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』の年立ては、こうした歴史観が背景にあるのではないかと推測します。
蘇我氏は、継体と尾張連の盟約(尾張連目子媛の子2人を王位に就けること)を履行し、尾張連の力を取り入れながら、安閑・宣化朝のあいだに、王権の立て直しを図ったものと思われます。