近江国高島郡の大荒比古神社

『延喜式』神名帳の近江国高島郡にみえる大荒比古神社は、安曇川を臨む、饗庭野台地の山並の南端に鎮座し、大荒田別命・豊城入彦命を祭神とします。

豊城入彦命の4世孫大荒田別命後裔、大野氏が、現宮司の城戸氏の祖とされます。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)滋賀県:高島郡>新旭町>井ノ口村>大荒比古神社)

大荒比古神社の南方3km、安曇川南岸の安曇川町三尾里は、古代北陸道の三尾駅に比定され、鎮座地は、安曇川水系と北陸道が交差する交通の要衝であることがわかります。

また、三尾里は、『和名抄』近江国高島郡三尾郷の遺称地であり、継体母系三尾君の拠点の中心地域とみられます。(→ 近江国高島郡三尾郷

三尾里の北方2km、大荒比古神社の安曇川対岸に鎮座する、式内社の三重生神社の「三重生」は「三尾」に因むもので、大荒比古神社奉祭勢力と三尾君の拠点域の重なりが認められます。

また、大荒比古神社の北方15.5km、高島市マキノ町浦に、大荒比古鞆結神社が鎮座します。

もとは別々の2社でしたが、文保年間(1317~1319)に、大荒比古神社を「荒道山下」から式内社の鞆結神社境内に移し、旧社を拝殿としたと伝わります。

「鞆結」は、「荒道(あらち)山」とよばれた近江・越前国境の山岳地帯の入口にあたり、北陸道全駅のなかでも最多の9疋の伝馬を備えていた、鞆結駅に因みます。

大荒比古鞆結神社の東方、「小荒路」の小字は「荒道山口」の意とみられます。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)滋賀県:高島郡>マキノ町>浦村>大荒比古鞆結神社、マキノ町>鞆結駅、マキノ町>小荒路村>荒道山)

大荒比古神社の旧社地は「小荒路」のあたりと推測され、奉祭勢力は、近江・越前国境の要衝にも拠点を有していたことが窺えます。

大荒比古神社の祭神である荒田別は、『紀』神功紀49年3月条にその名がみえます。

当該条は、異なる年次の異なる3つの史料を結合して構成されたことがわかっています。

1つは、千熊長彦と百済の肖古王の話で、干支を2運(120年)下げて369年に繋年されるべきもの、1つは、木羅斤資の話で、干支を3運(180年)下げて429年に繋年されるべきもの、残る1つが、荒田別の話です。

千熊長彦、木羅斤資の2話は『百済記』からの引用ですが、荒田別の話は別の史料とみられます。

(山尾幸久『古代の日朝関係』1989年、111~129頁、田中俊明『大加耶連盟の興亡と「任那」』1992年、80~100頁)

「荒田別・鹿我別は、卓淳で新羅を打ち破り、比自ホ(火+本)・南加羅・㖨国・安羅・多羅・卓淳・加羅の7国を平定した」と記されます。

田中俊明氏は、なぜ、古くからの倭国の友好国である南加羅・卓淳を平定する必要があるのか、なぜ、直前まで新羅攻撃の拠点としていた卓淳を平定するのか、なぜ、新羅を撃破すると加羅7国が平定されることになるのかなど、内容に不可解な点が多く、記事の信憑性に疑問を呈しておられます。

また、金官を「南加羅」、大加耶を「加羅」とよぶのは、大加耶が金官より有力な国となる、5世紀半ば以降のことであるといわれます。(→ しかし、5世紀半ば以降の倭国と加耶諸国のあいだに該当する史実はみあたりません)

(田中俊明、前掲書、84~85頁、同氏『古代の日本と加耶』2009年、48~49頁)

荒田別の話群は、他の2つと異なり、繋年も、史実としての復元もできない部分といえます。

荒田別とコンビを組む鹿我別の「鹿我」は「加賀」に通じますが、加我国造について「国造本紀」に「三尾君祖石撞別命四世孫大兄彦君」とみえ、荒田別・鹿我別はともに、三尾君と関係することになります。

さて、『紀』継体紀に、卓淳で新羅と対峙した人物として近江毛野臣がみえます。

近江毛野臣は、新羅に侵攻された南加羅・㖨己呑への対応のため、529年、安羅に派遣され、前線の卓淳で調停外交にあたりますが、失敗して、南加羅・㖨己呑・卓淳の滅亡を招き、召還される途上、対馬で病死します。(→ 磐井の乱と近江毛野臣の渡海

安羅・比自ホ・多羅・加羅(大加耶)は、この時点で存続していますが、562年までに新羅の侵攻により滅亡します。

近江毛野臣と荒田別の事績を比べると、卓淳で新羅と対峙したのは共通し、毛野臣は新羅に負けて、南加羅・㖨己呑・卓淳の3国を失ったのに対し、荒田別は新羅を破ったうえ、南加羅・㖨己呑・卓淳に加えて、安羅・比自ホ・多羅・加羅の4国までも「倭国領」としています。

近江毛野臣の痛恨の史実を「歴史のIF」で反転させ、思い切り「盛る」と、荒田別の話になるかと思います。

荒田別について、『紀』応神紀15年8月条・16年2月条、『続紀』延暦9年7月辛巳条に、百済から渡来人の祖を招来した記述がみえます。

『姓氏録』に荒田別後裔氏族として、大野朝臣・田辺史(右京皇別上)、広来津公(大和国皇別)、止美連(河内国皇別)、伊気(未定雑姓河内国)が記されますが、佐伯有清氏は、田辺史・止美連は渡来人であり、広来津公もその可能性があるといわれます。

(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 考証篇第2』1982年)

荒田別伝承の主眼は招来された渡来人のほうにあり、語り手はその子孫ではないかと思われます。

また、田辺史と馬の関係(佐伯有清、前掲書、165頁)も注目されます。

荒田別後裔大野朝臣(旧姓君)の一族とみられる、近江国高島郡の大荒比古神社の奉祭勢力の特性を整理すると、①三尾君との関係、②交通体系、③渡来人、④近江毛野臣の史実改変という4点になるかと思います。

近江毛野臣を安羅に運んだ三尾君の船団が、戦乱の南部加耶諸国から逃れる人々を連れ帰って自らの交通体系組織に組み入れ、それらの人々が、近江毛野臣の史実を元に渡来伝承を形成したのではないかと想像します。

改変は、荒田別後裔氏族が(百済三書を編んだ亡命百済人と同じように)律令国家の天皇の臣下として生きていくため渡来伝承を日本国に迎合的に改めたか、荒田別伝承を採用した『紀』編纂局が『紀』の全体像に合わせて行ったかのどちらかであると思われます。

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