『紀』応神紀9年4月条に、武内宿禰と甘美内宿禰の抗争の記述がみえます。
甘美内宿禰が「武内宿禰は筑紫で謀反を企てている」と応神天皇に奏上し、武内宿禰討伐の遣使がなされますが、壱伎直祖真根子が身代わりとなって武内宿禰を逃がします。
武内宿禰と甘美内宿禰のどちらが正しいのか探湯が行われ、武内宿禰が勝って、甘美内宿禰は罰せられます。
『紀』の時系列通りならば、4世紀末頃の出来事ですが、6世紀前半の「磐井の乱」を描いている可能性があります。
理由を3点示します。
① 甘美内宿禰による応神への奏上にみえる武内宿禰の行状、『独筑紫を裂きて、三韓を招きて己に朝はしめて、遂に天下を有たむ』は、『紀』継体紀21年6月条の筑紫君磐井の行動そのものです。
② 壱伎直祖真根子が身代わりとなって武内宿禰を逃がしますが、「国造本紀」に、伊吉嶋造(壱岐島造)(壱伎直)について、「石井(磐井)の従者である、新羅海辺の人を討った」とあり、「磐井の乱」との関係を一義的属性としています。(→「国造本紀」の伊吉嶋造)
③ 神判で敗れた甘美内宿禰は、武内宿禰の母系氏族である紀直の隷民となりましたが、『記』において、建内(武内)宿禰は、27氏族の大系譜を持つのに対し、味師内(甘美内)宿禰系譜は、1氏族と、大きな差があるのは、このことによると思われます。
比古布都押之信命 │ ├──味師内宿禰〈山代内臣祖〉 │ 尾張連等祖意富那毘妹葛城之高千那毘売 │ ├──────建内宿禰──┬──波多八代宿禰 │ │ 〈波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海臣・長谷部之君祖〉 │ ├──許勢小柄宿禰 │ │ 〈許勢臣・雀部臣・軽部臣祖〉 │ ├──蘇賀石河宿禰 │ │ 〈蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・ │ │ 桜井臣・岸田臣等祖〉 │ ├──平群都久宿禰 │ │ 〈平群臣・佐和良臣・馬御樴臣等祖〉 │ ├──木角宿禰 │ │ 〈木臣・都奴臣・坂本臣祖〉 │ ├──久米能摩伊刀比売 │ ├──怒能伊呂比売 │ ├──葛城長江曾都毘古 │ │ 〈玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣等祖〉 │ └──若子宿禰 │ 〈江野財臣祖〉 木国造祖宇豆比古妹山下影日売
建内宿禰系譜形成に主導的役割を果たしたのは蘇我氏という見解があり、「磐井の乱」後、権勢を次第に拡大する経過と符合します。
このように考えたうえで、当該伝承の描く事件を探ってみたいと思います。
「武内宿禰は筑紫で謀反を企てている」というのは、「讒言」つまり「でっち上げ」とされましたが、真実である可能性があります。
壱伎直真根子が身代わりとなって武内宿禰を逃がし、「国造本紀」に、伊吉嶋造(壱伎直)は「石井(磐井)の従者である新羅海辺の人を討った」とあります。
「石井従者新羅人」ではなく「石井従者新羅海辺人」なのは、深読みかもしれませんが、壱伎直が討伐したのは、磐井の指示により軍事行動のため壱岐島に配備されていた新羅の水軍ではないかと推測します。
配備は壱岐直の了解済み、つまり、武内宿禰と壱伎直真根子は、磐井に加勢するつもりで直前に「寝返った」のです。
武内宿禰は帰京して探湯の神判に勝ち、真実を伝えた甘美内宿禰は失脚しました。
前掲系譜のアンバランスは、山城綴喜(甘美内宿禰)と大和葛城(武内宿禰)の2勢力統轄する、継体王権の「屋台骨」ともいえる、広域大組織の崩壊を示し、このことにより、継体王権は「死に体」となったと推測します。
(→ 磐井の乱と近江毛野臣の渡海)(→ 「少彦名」の年代観)
『紀』継体紀25年条末尾の注にみえる『百済本記』の531年の継体死去の伝聞記事は、当該政変を示すと思われます。