播磨の牛鹿臣

『記』に、孝霊天皇の皇子の日子寤間の後裔氏族として、針間牛鹿臣がみえます。

針間牛鹿臣は、『姓氏録』右京皇別下に、宇自可臣と記され、「孝霊天皇の御子、彦狭島命の後なり」とあり、日子寤間(ひこさめま)は、彦狭島(ひこさしま)ともよばれることがわかります。

牛鹿臣の本拠地とみられる、『紀』安閑紀2年5月条の牛鹿屯倉は、兵庫県姫路市四郷町本郷に比定されてきましたが、近年、「三宅」の墨書土器が出土した高砂市の塩田遺跡とする説があります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)兵庫県:姫路市)

塩田遺跡(高砂市曽根町)は、天川東岸約300mの地点に位置し、標高2m以下の旧砂堆と後背湿地の接点に立地する、縄文晩期、弥生前期・中期、奈良・平安時代の複合遺跡で、「三宅」の墨書土器のほか、「伊保田司」と篦書きされた円形硯が出土し、本来の遺跡地は周辺に存在する官衙遺構とみられます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)兵庫県:高砂市>曽根村>塩田遺跡)

「伊保田司」の「伊保(いほ)」は、『播磨国風土記』賀古郡大国里条に「伊保山」、天平19年(747)2月11日大安寺伽藍縁起并流記資財帳(国立歴史民俗博物館蔵)に墾田地九九四町に「印南郡五町 伊保東松原」とみえる古い地域の名称です。

塩田遺跡を中心として、東西は法華山谷川の西岸から天谷川まで、南北は生石神社や竜山丘陵の辺りから海岸までを範囲とすると考えられています。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)兵庫県:高砂市>伊保)

また、『播磨国風土記』賀古郡条に「印南の浦」がみえ、仲哀天皇と神功皇后が熊襲討伐の途中で停泊したところ、海原が凪いで風も波も静かであったので、入浪(いりなみ)と名付けたことが記されます。

「印南の浦」は、日笠山東方一帯にあったと思われる入海で、高砂市の曽根や伊保の辺りと推測され、『万葉集』に「印南野は行き過ぎぬらし天伝ふ日笠の浦に波立てり見ゆ」(7-1178)とみえる「日笠の浦」も日笠山の南の海岸と推測されます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)兵庫県:高砂市>印南の浦、高砂市>日笠の浦)

また、中世の伊保庄の史料に複数みられる「伊保崎」、先述の「伊保東松原」から、入り海と瀬戸内海のあいだに松原のある砂嘴があったことが想像されます。

いっぽう、加古川の下流部の河道は、17世紀前半まで、加古川市平荘町池尻(日岡山の対岸)の南で、高砂川(現在の加古川)と洗川に分かれ、洗川は、米田の南で西洗川(現在の法華山谷川)と東洗川(廃川)に分かれ瀬戸内海に注いでおり、『播磨国風土記』『万葉集』によると、古代の河口域に、「南毗都麻」「稲日都麻」とよばれる島がありました。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)兵庫県:高砂市>洗川、高砂市>加古の島)

古代の伊保は、竜山丘陵と日笠山丘陵と海岸部の砂嘴に囲まれた入り海、すなわち加古川河口域の天然の良港とみられ、『紀』応神紀13年9月条の「鹿子水門」は当地を示すと考えます。

牛鹿臣は、「鹿子水門」を拠点とする海洋系勢力であり、また、古墳時代全般を通じて石棺材に広く使用された竜山石の利権を掌握していたとみられます。

『記』孝霊段に、系譜に加えて、次のような記述がみえます。

大吉備津日子命と若建吉備津日子命との二柱は、相副ひて、針間の氷河之前に忌瓮を居ゑて、針間を道の口と為て、吉備国を言向け和しき。

「針間の氷河(ひかわ)」は加古川とされ、当該記述は、一義的に牛鹿臣に関わるものといえます。(吉備制圧への関与を示すか)

『記』『紀』景行段に、ヤマトタケルの母の播磨稲日大郎姫が当地の女性とされることも注目されます。

海洋系勢力の属性は、『記』孝霊系譜の日子寤間の異母兄の日子刺肩別の後裔氏族の高志利波臣・豊国国前臣・五百原君・角鹿海直4氏と共通します。(→ 日子寤間・日子刺肩別の後裔氏族)

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