『紀』景行紀55年2月条に、彦狭嶋王についての記述がみえます。
彦狭嶋王を以て、東山道の十五国の都督に拝けたまふ。
是豊城命の孫なり。
然して春日の穴咋邑に到りて、病に臥し薨りぬ。
是の時に、東国の百姓、其の王の至らざることを悲びて、
窃かに王の尸を盗みて、上野国に葬りまつる。
崇神天皇の子、豊城入彦の孫にあたる彦狭嶋王が、東山道15国の都督となった後、春日の穴咋邑で亡くなり、上野国に葬られたことが記されます。
この記述に続いて、56年8月条に、彦狭嶋王の子、御諸別王が東国を治めたことがみえます。
彦狭嶋王・御諸別王の父子は、上野国など東山道諸国との深い関係が窺われます。
「国造本紀」に、上毛野国造について、「瑞籬朝 皇子豊城入彦命孫彦狭嶋命初治平東方十二国為封」とみえ、群馬県甘楽町福島の笹森稲荷古墳、長野県佐久市協和比田井の王塚古墳に関して、彦狭嶋王墓とする伝承があります。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):群馬県:甘楽郡>甘楽町>福島村>笹森稲荷古墳、長野県:北佐久郡>望月町>比田井村)
いっぽう、『姓氏録』に、彦狭島の後裔氏族として垂水史がみえます。
垂水史の氏名は、『延喜式』神名帳の摂津国豊島郡にみえる垂水神社(大阪府吹田市垂水町)の鎮座地にもとづくもので、『姓氏録』には「垂水」に関わる氏族として他に、垂水公がみえ、次のように記されます。
豊城入彦命の四世孫、賀表乃真稚命の後なり。
六世孫、阿利真公。諡は孝徳天皇の御世、天下旱魃して、河井涸絶ぬ。
時に阿利真公。高樋を造作りて、垂水の岡基の水を、
宮内に通して、御膳に仕奉れり。
天皇、其の功を美たまひて、垂水公の姓を賜ひ、垂水神社を掌ら使む。
垂水公の祖が、旱魃の折に、垂水神社の泉の水を「樋」によって、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮まで運んだことがみえます。
また、垂水神社には、社宝として「長柄の橋柱」が所蔵されます。
『摂津名所図会』によると、「長柄橋」は、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮の時代、当地に点在する島々に架け渡して通路としたもので、橋杭と称する朽木が所々に残り、今の北長柄から豊島郡垂水庄にまでを「長柄の橋跡」とされました。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):大阪府:吹田市>垂水村>垂水神社、大阪市>大淀区>北長柄村>長柄・長柄橋)
「長柄橋」の比定について諸説ありますが、垂水もその1つとなっています。
「長柄」は、事代主神と密接な関係をもつ地名であり、当地より神崎川を遡った至近の摂津国三島は、事代主神が関係する最も重要な伝承(三嶋溝橛耳の娘の神婚)の舞台となっています。(→ 三嶋溝橛耳と事代主神後裔氏族)
また、三島は、中臣氏の拠点としても注目されます。(→ 摂津国島下郡の新屋坐天照御魂神社)
彦狭嶋王の最期の地「春日の穴咋邑」も中臣氏ゆかりの地です。(→ 大和国添上郡の穴栗社・菟上社)
豊城系譜の彦狭島について、上野国など東山道諸国との結びつきに目が行きがちですが、淀川河口域の摂津垂水を拠点とし、事代主神及び中臣氏と接点があることが注目されます。
◇ 茅渟の在地有力勢力は、彦狭嶋王の父や子の後裔を称する。(→ 遠津年魚目目妙媛と豊城入彦・豊鍬入姫)