越中国礪波郡は、西の宝達山系の倶利迦羅山、南の五箇山、西の庄東山地と、三方を山並みに囲まれた礪波平野を郡域とします。
現在は、西端を小矢部川が流れ、東端を庄川が北流して富山湾に注ぎますが、往古は、庄川が砺波市庄川町小牧から、平野を横切って、南砺市高瀬、上川崎を通り、小矢部市下川崎で小矢部川に合流していたと考えられています。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):富山県>総論>庄川)
古代の有力豪族は、利波臣です。
『続日本紀』に、利波臣志留志という人物が、天平19年(747)9月2日に、米3000石を東大寺の盧舎那仏の知識に寄進して外従5位下を授かり、天平神護3年(767)3月20日に、墾田100町を東大寺に献じた功により、従5位上を授かり、越中の員外介に任じられ、宝亀10年(779)2月3日に伊賀守に任じらたことがみえます。
天平宝字3年(759)11月14日の礪波郡伊加流伎開田地図(正倉院蔵)に、伊加留伎庄の南側に「外従五位下利波臣志留志地」と記され、神護景雲元年(767)11月16日の伊加留岐村墾田地図(正倉院蔵)の四至に「南同寺墾田地 井山村」とあって、「井山村」は、天平神護3年(767)5月7日の越中国司解(東南院文書)にみえる井山庄の地なので、利波臣志留志が天平神護3年(767)に献じた墾田100町が東大寺領井山庄となったことがわかります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):富山県>東礪波郡>井山庄)
井山庄は、富山県砺波市東部の現庄川本流を含めた地域で、雄神橋から太田橋にかけての範囲内に位置した考えられており、利波臣志留志の本拠は、礪波平野東端の地域にありました。
いっぽう、利波臣の史料として、『越中国官倉納穀交替帳』(石山寺蔵)と『越中石黒系図』(石黒定治家蔵)があり、前者に、天平勝宝3年(751)から延喜10年(910)までに礪波郡司の職にあった利波臣の人名が多数記され、後者は、それらの人物の系譜を記します。(利波臣志留志の名はみえません)
『越中国官倉納穀交替帳』『越中石黒系図』にみえる礪波郡司の利波臣の拠点は、礪波平野西端の地域と考えられています。
小矢部川と礪波山丘陵の間に広がる微高地は、加賀と越中を結ぶ倶利伽羅峠の東麓に位置し、渋江川、小矢部川の舟運を通じて日本海とも結ばれる水陸交通の要衝であり、「郡」銘のある平安時代の墨書土器が出土した道林寺遺跡(小矢部市道林寺)をはじめとする各時代の遺構が密集し、礪波郡の有力豪族・郡家・駅路・律令制村落などの解明に重要な鍵を握る地域とされます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):富山県>小矢部市)
〈 利波臣の2つの系譜と海洋的属性 〉
利波臣の系譜として、『越中石黒系図』のほかに『記』孝霊系譜があります。
『越中石黒系図』は、利波臣を、孝元天皇の曽孫の武内宿祢の子、若子宿祢の後裔とするのに対し、『記』孝霊系譜は、孝霊天皇の子の日子刺肩別の後裔とし、2系譜の相違をどのように考えるのかが問題となります。
日子刺肩別は、吉備上道臣の祖の比古伊佐勢理毘古(大吉備津日子)の弟で、高志利波臣のほかに、豊国国前臣・五百原君・角鹿海直の3氏が後裔氏族に記されます。
3氏は、「国造本紀」に吉備の祖の後裔とあり、『紀』天智紀2年8月条に、廬原(五百原)君が白村江で水軍を率いたことがみえ、豊前国東・越前敦賀の地理的性格を考え合わせると、吉備臣と関係の深い海洋系勢力という共通性が認められます。(→ 孝霊系譜の彦狭島)
では、利波臣は海洋系勢力といえるのか。
『越中石黒系図』は、利波臣の出自を次のように記します。
若子宿祢─┬─若長宿祢〈道公祖〉
├─大河音宿祢〈志賀高穴穂朝天皇御宇五年秋九月詔定賜伊弥頭国造矣〉─┐
└─真猪宿祢〈江沼臣 坂名井臣 祖〉 │
┌──────────────────────────────────────┘
└─努美臣─┬─麻都臣〈射水臣祖〉
└─波利古臣〈男大迹天皇御時賜利波評〉──大籠臣──気飯臣─┐
┌───────────────────────────────────┘
└─財古臣〈岡本朝為利波評督〉──山万呂〈庚午年籍屓利波臣姓〉─┐
┌───────────────────────────────┘
└─千代〈礪波郡司大領下従七位上〉──・・・
若子宿祢には、若長宿祢、大河音宿祢、真猪宿祢という3人の子があって、大河音宿祢の譜文に「志賀高穴穂朝天皇御宇五年秋九月詔定賜伊弥頭国造矣」と記され、「国造本紀」に、伊彌頭国造について「志賀高穴穂朝御世 宗我同祖建内足尼孫大河音足尼定賜国造」とあることと一致します。
さらに、大河音宿祢の孫の麻都臣に「射水臣の祖」、麻都臣の弟の波利古臣に「男大迹天皇の御時、利波評を賜ふ」とみえます。(佐伯有清「利波臣氏の系図」(『古代氏族の系図』1975年))
利波臣は、波利古の代に、射水臣の本宗から分枝して成立したことがわかります。
射水臣の本拠地である越中国射水郡は、富山湾に臨み、行政の中心となる国府とともに、海路・陸路の要衝の曰理湊・曰理駅があり、曰理湊について、『延喜式』主税寮諸国運漕雑物功賃条に「自曰理湊漕敦賀津、船賃、石別二束二把、挟杪七十束、水手三十束」と、敦賀と結ぶ海路が記されます。
曰理湊は、伏木台地の国府に近い小矢部川河口域に比定され、高岡市の守護地区とする説(越中志徴)と射水市の六渡寺地区とする説(大日本地名辞書)があります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):富山県>高岡市>曰理駅)
このようにみてくると、利波臣を、海洋系の豊国国前臣・五百原君・角鹿海直と同祖する、『記』孝霊系譜は、射水臣と利波臣が分離する以前を示していると思われます。(敦賀津と曰理湊の海路は、角鹿海直と(射水臣と一体関係にある)利波臣を繫ぐ証左となります)
佐伯有清氏は、波利古臣について「男大迹天皇の御時、利波評を賜ふ」とあることについて、継体朝(男大迹天皇の御時)に、評という行政区画があったとは考えられないが、波利古臣の3世の孫の財古臣に「岡本朝、利波評督と為る」とある「岡本(舒明)朝」を「後岡本(斉明)朝」の誤りとすると、事実として不都合はないといわれます。
そのうえで、財古臣を斉明朝の人として世系を遡らせると、波利古臣が継体朝の人であることは確かであり、「利波評を賜ふ」というのは、後の利波評となる地域を支配したことを意味するのではないかといわれます。
時系列を整理すると、吉備臣と関係の深い人物の支配下にあった射水臣と利波臣の連合体は、継体朝になって、2つに分かれたことになります。
また、佐伯有清氏が指摘されるように、大河音宿祢の兄の若長宿祢は、「国造本紀」に「三国国造 志賀高穴穂朝御世 宗我臣祖彦太忍信命四世孫若長足尼定賜国造」とある若長足尼です。
越前国坂井郡の三国湊を拠点とする海洋系勢力の三国国造が、射水臣・利波臣の連合体と近い関係にあったことは容易に理解できますが、いっぽうで、三国国造(三国公)は、『紀』継体紀に、継体母系三尾君から派生した氏族とされます。
さらに、佐伯有清氏は、大河音宿祢の弟の真猪宿祢の後裔とされる「坂名井臣」について、『紀』継体即位前紀に、継体が居住していたという「三国の坂名井」の地名にもとづく可能性があるといわれます。
越前国三国湊の勢力も、吉備臣と関係の深い海洋系勢力の大組織に属していたと思われます。
当該海洋系組織は、どのような経過を経て、そのなかの一派が継体を推戴するに至ったのか、射水臣からの利波臣の分枝はそのことと関係するのかなど、継体王権と海洋系勢力をめぐる視点が浮かびます。