紀伊国名草郡の伊太祁曾神社

『延喜式』神名帳の紀伊国名草郡にみえる伊太祁曾神社は、和歌山市伊太祁曾に鎮座し、五十猛・大屋津姫・枛津姫の3神を祭神とします。

『紀』神代紀第8段に、伊太祁曾3神について次のような記述がみえます。

初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種を将ちて下る。

然れども韓地に殖ゑずして、尽に持ち帰る。

遂に筑紫より始めて、凡て大八洲国の内に、

播殖して青山に成さずといふこと莫し。

所以に、五十猛命を称けて、有功の神とす。

即ち紀伊国に所坐す大神是なり。

『紀』神代紀第8段一書第4

時に、素戔鳴尊の子を、号けて五十猛命と曰す。

妹大屋津姫命、次に枛津姫命。

凡て此の三の神、亦能く木種を分布す。

即ち紀伊国に渡し奉る。

『紀』神代紀第8段一書第5

伊太祁曾3神は、スサノヲの子であり、大八洲国に木種をもたらしたことが記されます。

社伝によると、伊太祁曾3神はもとは日前国懸神宮の地に奉斎され、その後、神宮に鎮座地を譲って山東(現社地)へ遷座し、大宝2年(702)に3社に分祀されました。『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):和歌山県:和歌山市>河南地区>伊太祈曾村>伊太祁曾神社)

『続日本紀』大宝2年(702)2月己未(22日)条に「伊太祁曾・大屋都比売・都麻都比売の三の神社を分ち遷す」とみえます。

大屋都比売神社は、和歌山市宇田森に鎮座し、都麻都比売神社は、高積神社(和歌山市禰宜)、都麻津姫神社(和歌山市吉礼)、都麻津姫神社(和歌山市平尾)とする3説があります。

また、古来、紀三所社と称される、伊達神社・志磨神社・静火神社の3社は、『紀伊続風土記』(天保10年(1839)成立)によると、伊太祁曾3神の分祀とされます。

伊達(いだて)社は、和歌山市園部に、志磨社は、和歌山市中之島に鎮座し、静火社は早くに廃絶し、享保8年(1723)頃に和歌山市和田に再建されました。

承安4年(1174)12月日の紀実俊解状案(栗栖家文書)に、河南島(松島に比定)について「西則紀三所・神宮」とみえ、当時、紀三所社は河南の日前宮にほど近い1カ所にまとめて祀られていたことがわかります。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):和歌山県:和歌山市>河北地区>薗部村>伊達神社、和歌山市>河南地区>中野島村>志磨神社、河南地区>和田村>静火神社跡)

伊太祁曾神社・大屋都比売神社・都麻都比売神社・伊達神社・志磨神社・静火神社の6社はいずれも、『延喜式』神名帳に紀伊国名草郡の名神大社とされ、重要な神格と窺われます。

着眼点は、2つあります。

① 『紀』神代紀第8段一書第5に、木種の最も重要な用途は船とされます。

スサノヲは、我が子の治める国に「浮宝」(船のこと)がないのは困るので、身体の毛から杉・檜・柀・櫲樟を造り、杉と櫲樟は船に、檜は宮に、柀は棺に充てるように言います。

『住吉大社神代記』に、住吉大神の子神として「船玉神」がみえ、「今、斎祀るは紀国の紀氏神と謂ふ。□□神・静□神・伊達神の本社なり」と記され、紀三所社の伊達・志磨・静火の3神が「船玉神」とされます。

また、『播磨国風土記』餝磨郡因達里条に「息長帯比売の命、韓国を平けむと欲して、渡り坐しし時に、み船前に御しし伊太代の神、此処に在す」とみえます。

神功皇后の船の舳先に奉祭された神とは「船玉神」であり、「伊太代(いたて)の神」は、紀三所社の伊達神を示します。(→ 播磨国飾磨郡の射楯兵主神社)

五十猛をはじめとする伊太祁曾の諸神は、「船」と深く関係します。

② 五十猛は、スサノヲの子とされ、『記』に、スサノヲに大穴牟遅神を送り出したことがみえる「木国の大屋毘古神」も「地祇本紀」に五十猛の別名として「大屋彦」とあることから、五十猛を示します。

また、スサノヲを奉祭する、紀伊国在田郡の須佐神社(和歌山県有田市千田)は、縁起・神事において伊太祁曾神社と深い関係を持ち、神戸も伊太祁曾社の至近に設定されています。(→ 出雲国飯石郡と紀伊国在田郡の須佐)

スサノヲと五十猛の密接な関係に注目します。

『記』及び『紀』神代紀第5段一書11に、三貴子の分治で、イザナキがスサノヲに対し「海原を知らせ」「滄海之原を御すべし」と「海」を治めるよう命令しています。

スサノヲは、出雲の八岐大蛇の話から「山」の神という印象があり、なぜ「海」なのかと不可解に思われますが、「海」は、五十猛を媒介とする属性と推測されます。

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