紀伊国在田郡と出雲国飯石郡の須佐

スサノヲ(須佐之男)の名は、「須佐」の地名と不可分であり、『和名抄』の紀伊国在田郡と出雲国飯石郡にみえる須佐郷との関係が窺われます。

紀伊国在田郡の須佐郷は、有田川南岸の河口近くに鎮座する式内社、須佐神社(和歌山県有田市千田)の辺りに比定されます。

須佐神社は、『延喜式』神名帳に名神大社とされ、スサノヲを祀ります。

『紀伊続風土記』(天保10年(1839))は、社伝によるとして、和銅6年(713)10月初亥の日に、大和国吉野郡の西川峰より移祠、初め祠は西海に向かっていたが、往来する船で当社に従わないものを転覆破砕したので、元明天皇が祠を南面させたと記します。

伊太祁曾神社と関係が深く、『新抄格勅符抄』所引の大同元年(806)牒に「須佐命神 十戸 紀伊国」とみえる神封は、『和名抄』東急本にみえる「名草郡須佐神戸」とされ、伊太祁曾神社至近の和歌山市口須佐・奥須佐に比定されます。

また、『紀伊国名所図会』所引寛永記に、天正(1573~92)の頃まで、9月寅卯の日に、伊太祁曾神社から来た神馬12騎が神事を務めたことが記されます。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):和歌山県:有田市>千田村>須佐神社)

伊太祁曾神社は、『記』『紀』にスサノヲの子としてみえる五十猛を祭神とします。(→ 紀伊国名草郡の伊太祁曾神社

いっぽう、出雲国飯石郡の須佐郷は、神戸川支流須佐川南岸に鎮座する式内社、須佐神社(島根県出雲市佐田町須佐)の辺りに比定されます。

『出雲国風土記』飯石郡須佐郷条に次のような記述がみえます。

神須佐能袁の命、詔りたまひしく、

「この国は、小さき国なれども国処なり。

故れ、我が御名は、木石には着けじ」と詔りたまひて、

すなはち己が命の御魂を鎮め置き給ひき。

然してすなはち大須佐田・小須佐田を定め給ひき。

故れ、須佐と云ふ。

『出雲国風土記』に、スサノヲの記述は、意宇郡安来郷、大原郡佐世郷、御室山にもみえますが、「己が命の御魂を鎮め置き給ひき」というような一義的関係は、飯石郡須佐郷のみに記されます。

また、『記』『紀』において、スサノヲは、「肥の河上、名は鳥髪といふ地」(出雲と伯耆の国境の船通山)で八岐大蛇を退治して、「須賀の宮」(雲南市大東町須賀)に住んだと記されます。

しかし、『出雲国風土記』では、「鳥髪」「須賀」に対応する仁多郡の鳥上山、大原郡の須我山・須我の小川の諸条に関連の記述はなく、両者の立場は明確に異なります。

「須賀の宮」について、西郷信綱氏は、熊野大社(島根県松江市八雲町熊野)に比定されます。

熊野大社は、『延喜式』に出雲国意宇郡の名神大社として熊野坐神社とみえ、大原郡・意宇郡の郡境の八雲山の東麓に鎮座します。

西郷氏は、『出雲国風土記』の大原郡の須我山・須我の小川の記述は、大原郡・意宇郡の郡境の地を示し、『風土記』にみえる「須我社」は小祠で式内社ではないことからあたらず、「出雲国造神賀詞」に「伊射那伎の日真名子、加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」、『出雲国風土記』に「伊弉奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命」と記される祭神は、イザナキの禊ぎによって生まれた「三貴子」の1人であるスサノヲを示すといわれます。(西郷信綱『古事記注釈 第2巻』2005年、224~226頁)

なぜ、『出雲国風土記』は、熊野大神について、スサノヲではなく「伊弉奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命」と記し、八岐大蛇伝承との紐付けをしなかったのか。

そもそも、なぜ、『出雲国風土記』に、スサノヲの八岐大蛇退治の伝承がないのか。

スサノヲの神格は、出雲のなかから発生した神ではなく、外から出雲に紐付けされた神と推測され、2つの須佐郷の在り方から見て、主導的役割を果たしたのは、紀伊国の伊太祁曾神社の奉祭勢力ではなかったかと思われます。(→ 天照御魂神と素戔鳴と紀直)

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