「私部」の地名とスサノヲ

『紀』敏達紀6年2月条に、「日祀部・私部を置く」とみえます。

「私部(きさいちべ)」は、后妃のための部とされます。(岸俊男「光明立后の史的意義ー古代における皇后の地位−」(『日本古代政治史研究』1966年))

『和名抄』丹波国何鹿郡・因幡国八上郡・肥後国飽田郡の私部郷のほか、「私部(きさいちべ・きさいべ)」「私市(きさいち)」の地名は各地に残り、次のような特徴が認められます。

① 丹波国何鹿郡私部郷は、京都府綾部市私市町と福知山市私市にわたる地域に比定され、中世に賀茂別雷神社領の私市庄が立荘されました。

福知山市の私市集落の北方、小字須賀の山に鎮座する佐須賀神社は、『延喜式』神名帳にみえる何鹿郡の佐湏我神社に比定され、スサノヲを祭神とします。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):京都府:丹波国>何鹿郡>私部郷、福知山市>私市村)

スサノヲが出雲の「須賀」に住んだことが『記』『紀』にみえ、「須賀」は、スサノヲと深く関わる地名です。(→ 紀伊国在田郡・出雲国飯石郡の須佐

② 因幡国八上郡私部郷は、鳥取県八頭郡八頭町の私都(きさいち)川の中・上流域に比定されます。(近世には、下峰寺村以東が八東郡私都郷に属しました)

八頭町篠波に鎮座する忌部大明神は、『延喜式』神名帳にみえる八上郡の美弊沼神社に比定されます。

天文8年(1539)12月吉日の檀那引付(肥塚家文書)に、因幡のうち「きさいちのさゝなミ」の七郎左衛門は広峯神社の社家肥塚家の檀那であったことがみえ、また同14年2月吉日の「檀那村付帳」(同文書)にも「きさいち内さゝなミ一ゑんおか殿や」とあり、スサノヲを祭神とする広峯神社(兵庫県姫路市広嶺山)と密接な関係をもつ人々が篠波にいたことがわかります。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):鳥取県:因幡国>八上郡>私部郷、八頭郡>郡家町>私都川、郡家町>篠浪村、兵庫県:姫路市>旧飾磨郡地区>広嶺山>広峯神社)

③ 肥後国飽田郡私部郷は、遺称地・比定地ともに不明ですが、『紀』安閑紀2年5月条にみえる春日部屯倉に比定される熊本県熊本市西区春日とする説があります。

郡領氏族は建部君であり、その本拠地は、『和名抄』の蚕かい郷にあたる、近世の竹部村(熊本市中央区坪井・薬園町・子飼本町・黒髪)とされ、飽田郡では、ヤマトタケルに因む建部、春日部屯倉の設定など、早くから王権による開発が進んでいました。

春日地域の北の花岡山(標高133m)は、南西麓に鎮座する北岡神社に因み、「祇園山」とよばれます。(北岡神社はスサノヲを祀りますが、承平4年(934)肥後国司藤原保昌が山城国祇園社を湯ノ原に勧請したのが起源とされます)

また、『続日本紀』養老2年(718)4月乙亥(11日)条に、肥後国司の道君首名により「味生(あじう)池」が築造されたことがみえ、花岡山に連接する阿弥陀寺山(万日山)と独鈷山のあいだの低湿地が跡地とされ、北方山中の池辺寺は、元々は、池に住む悪竜退散のため、和銅3年(710)に池の畔に建立されたと、『肥後国誌』(明和9年(1772))に記されます。(疫神の存在)

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):熊本県:肥後国>飽田郡、飽田郡>私部郷、熊本市>竹部村、熊本市>横手村>花岡山、横手村>北岡神社、熊本市>新村>味生池、熊本市>池上村>池辺寺跡)

④ 大阪府交野市の天野川流域に、私部・私市の地名が残り、『和名抄』河内国交野郡三宅郷に比定されます。

天野川水系には随所に住吉神が祀られ、近世における、私部村の産土神は住吉神社(交野市私部1丁目)であり、私市村の磐船神社(交野市私市9丁目)も物部氏祖神の饒速日と住吉4神を祭神とします。

天野川上流の磐船峡谷に鎮座する磐船神社は、饒速日の天磐船とされる舟形の巨岩が著名ですが、江戸時代に、この巨石が住吉明神と称され信仰の対象とされたことが、『南遊紀行』(貝原益軒、元禄2年(1689))、『河内名所図会』(享和元年(1801))にみえ、古くは私市・星田、田原の産土神として、祭礼の時に各村の住吉神社の神輿が集まりました。

また、天野川流域には、機物神社(交野市倉治)、星田妙見宮(交野市星田)など星に関わる神社が点在します。

桓武天皇・文徳天皇の時代に、交野の柏原において、郊祀祭天が行われており、「天」を祭祀する土地であったとみられます。(『続日本紀』延暦4年(785)11月壬寅条・延暦6年(787)11月甲寅条、『文徳実録』斉衡3年(856)11月壬戌条・甲子条)

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):大阪府:河内国>交野郡>三宅郷、交野市>私部村、交野市>私市村>磐船神社、枚方市>片鉾村>交野郊祀壇跡)

⑤ 埼玉県加須市根古屋に、私市城の跡が残ります。

私市城は、享徳4年(1455)には成立していたとみられ(『鎌倉大草紙』)、寛永9年(1632)に廃城となりました。

騎西領の総鎮守は、私市城の西北西1.3kmに鎮座する玉敷神社です。

玉敷神社は、武蔵国埼玉郡の式内社で、大己貴神を祭神とし、享保年間(1716~1736)の神主河野長門による「要用集」によると、当初は北の正能村にありましたが、上杉謙信の私市城攻略の際に炎上して城の大手門近くに移り、その後場内で火災があって、現社地である、式内社の宮目神社境内に移転したといいます。

江戸時代は、久伊豆神社を称し、元荒川流域に約80社分布する久伊豆神社の本社とする説があります。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):埼玉県:武蔵国>埼玉郡>笠原郷、北埼玉郡>騎西町>根小屋村>私市城跡、騎西町>騎西町場>玉敷神社)

①〜⑤の属性を整理すると、次のようになります。

丹波国何鹿郡私部郷スサノヲ(佐湏我神社・須賀)
因幡国八上郡私部郷忌部(美弊沼神社)・祇園神(広峯神社)
肥後国飽田郡私部郷中臣(春日)・祇園神(北岡神社)
河内国交野郡の私部・私市住吉神・饒速日・郊祀祭天
武蔵国埼玉郡の私市大己貴(玉敷神社)

着眼点は次のとおりです。

 スサノヲ

①は、スサノヲと関係し、②③は、スサノヲと習合した牛頭天王、祇園神と関わりをもち、④の郊祀祭天や星の神は「天王」の観念で繋がります。

❷ 火明(ホアカリ)

①②は、丹波と因幡の国造が火明(ホアカリ)後裔であり、④は、住吉大神を奉祭する津守連が火明後裔で、饒速日は「天孫本紀」に火明と同神と記されます。(→ 丹波国天田郡の天照玉命神社)(→ 『因幡国伊福部臣古志』とイキシニホ)(→ ホアカリ・ニギハヤヒ・イキシニホの一体性

❸ 忌部・中臣

②の美弊沼神社は「忌部大明神」とよばれ、③の「春日」の地名は中臣に関係します。

❷❸は、一見すると無関係に思えますが、『播磨国風土記』の射楯神の記述を通すと、意外な構図が浮かびます。

『播磨国風土記』飾磨郡に、大己貴神と子の火明の話がみえます。

火明は、『記』『紀』では大己貴神の子ではないのですが、大己貴神を祭神とする宍粟郡の伊和神社の在地勢力を『播磨国風土記』は火明後裔の石作と記し、飾磨郡の2神の伝承地についても、伊和神社勢力の移住地と記し、整合性が認められ、一定の事実を反映するものと思われます。(→ 播磨国宍粟郡の伊和坐大名持御魂神社

火明の話の舞台となった土地は、射楯神の奉祭地であり、射楯神と同神である、揖保郡の中臣印達神は、紀伊国の伊太祁曾神社の祭神、スサノヲの子神の五十猛神であり、『住吉大社神代記』では、住吉大神の子神とされます。(→ 播磨国飾磨郡の射楯兵主神社)(→ 紀伊国名草郡の伊太祁曾神社

また、伊太祁曾神社の旧社地は、紀伊国名草郡忌部郷に接し、中臣印達神社は中臣を冠します。

大己貴・火明・五十猛・スサノヲ、住吉神、忌部・中臣が繋がります。

射楯(伊達)神は、『住吉大社神代記』に「船玉神」とあり、『播磨国風土記』に神功皇后の船先に祀られたと記され、大己貴神と火明の話も船にまつわるものです。

また、伊勢国度会郡二見の松下社、尾張国海部郡の津島社などを中心におこなわれる、伊勢湾岸地域の祇園信仰にもとづく海の祭祀も注目されます。

これらはみな、『記』『紀』に「海原を知らせ」「滄海之原を御すべし」とある、スサノヲと海の関係を示すもので、スサノヲ神の形成過程を知る鍵となるかと思われます。

目次