河内国高安郡は、名神大社である恩智神社周辺に、天照大神高座神社・玉祖神社など、『記』『紀』神話伝承と関わりをもつ式内社が密集し特殊な土地であることが窺われます。
(→ 恩智神社と住吉大社)(→ 天照大神高座神社と恩智神社)(→ 玉祖神社と恩智神社)
『和州五郡神社神名帳大略註解巻四補欠』所引「多神宮注進状裏書」に、多氏の奉祭する6神と河内国の6社の対応関係がみえ、河内国6社のうち4社は、高安郡の神社となっています。(天照大神高座神社・春日戸社坐御子神社・掃部神社・玉祖神社)(→ 「多神宮注進状裏書」にみえる河内国の神社)
春日戸社坐御子神社は、所在地不明となっていますが、『延喜式』神名帳に、天照大神高座神社について「元名春日戸神」と記されることから、その境内に祀られていたと推測されます。
天照大神高座神社・春日戸社坐御子神社は、多氏の筆頭神である多坐弥志理都比古神社2座に対応しており、重要な神社であったことが窺われます。
掃部神社は現存しませんが、『三代実録』貞観16年(874)12月29日条に「河内国正六位上掃部神」がみえ、『和名抄』の高安郡掃守郷に所在した掃守連の奉祭神と推測されます。
掃守連については、『古語拾遺』に彦波瀲武鸕鷀草不葺合との伝承がみえます。(→ 彦波瀲武鸕鷀草不葺合と掃守)
『河内名所図会』『日本地理志料』に、掃部神が黒谷村に所在したとあることから、掃守郷は、八尾市黒谷・教興寺に比定されます。(『日本歴史地名大系(JapanKnowlegde)』大阪府:高安郡>掃守郷)
天照大神高座神社・春日戸社坐御子神社・掃部神社の3社は、「黒谷」「教興寺」の小字、ほぼ同じ場所にあったことになります。
また、天照大神高座神社は、江戸時代、教興寺の鎮守岩谷弁財天として信仰を集めていました。
教興寺は、秦寺・高安寺とも称し、秦河勝の創建と伝わります。
天照大神高座神社・春日戸社坐御子神社・掃部神社の3社に加え、秦氏の寺も重複していたことになります。
また、玉祖神社は、社伝によると周防国佐波郡から遷座したとありますが、恩智神社の社伝には、遷座の際、恩智神が玉祖神に高安郡7郷のうち6郷を与えたと記され、高安郡の大部分を新来の神に与えたことも注目されます。
このような河内国高安郡の特殊性は、何を意味するのか。
「多神宮注進状裏書」の6神対応は、基本的には多氏と当該地域の関係を示すものと思われます。
そのうえで、「多神宮注進状裏書」に「昔凡河内国日下県可為 今大県、高安、河内、讃良四郡也乎哉」とあることに注目します。
「日下県」は、一般的に、河内国河内郡の「日下」(東大阪市の善根寺・日下・布市)に比定されますが、それよりも広域の生駒山西麓の河内国の大県・高安・河内・讃良4郡とする認識が示されています。
神話伝承においては、日下は、神武天皇が長髄彦と戦った「孔舎衛坂」であり、『記』『紀』垂仁段のホムツワケ伝承も当該地域と密接に関係します。(→ 「孔舎衛坂」の戦いと長髄彦)(→ ホムツワケ伝承と河内国高安郡・大県郡)
いっぽう、歴史的事実として、日下は、5世紀代の日向諸県君髪長媛の血統を継ぐ后妃の本拠とされます。(→ 日下の后妃)
また、6世紀初め、『紀』継体即位前紀に、即位を断っていた継体を説得したことがみえる河内馬飼首荒籠は、『紀』継体紀24年9月条の河内母樹馬飼首御狩の同族とみられます。
「母樹(おものき)」は、『紀』神武即位前紀の日下(孔舎衛坂)の戦いの記述にみえる「母木」で、高安郡の恩智神社と河内郡の枚岡神社の辺りの2カ所を示す地名であり、継体即位に日下の勢力が関与しています。(→ 母木(おものき))