『紀』神代紀10段に、彦波瀲武鸕鷀草葺不合についての記述がみえます。
彦火火出見の子で神武天皇の父にあたります。
「彦波瀲武鸕鷀草葺不合」の名の由来について、『紀』神代紀10段一書第1に次のように記されます。
児の名を彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と称す所以は、彼の海浜の産屋に、
全く鸕鷀の羽を用て草にして葺けるに、甍合へぬ時に、
児即ち生れませるを以ての故に、因りて名けたてまつる。
彦火火出見は、豊玉姫から出産の様子を見ないようにと言われましたが、約束を破って海辺の産屋をのぞくと大熊鰐(わに)がおり、豊玉姫は見られたことを恨んで海郷に帰ってしまい、子は豊玉姫の妹の玉依姫が育てることになりました。
子の名を「彦波瀲武鸕鷀草葺不合(ひこなぎさたけうがやふきあへず)」というのは、鸕鷀(う)の羽で産屋の屋根を葺こうとして出来上がらないうちに生まれてしまったことに由来するとあります。
「葺不合」という名は、「道半ばで終わった人」を示唆します。
また、『紀』神代紀10段本文に、豊玉姫の去る様子が次のように記されます。
而して甚だ慙じて曰はく、
「如し我を辱しめざること有りせば、
海陸相通はしめて、永く隔絶つこと無からまし。
今既に辱みつ。将に何を以てか親昵しき情を結ばむ」といひて、
乃ち草を以て児を裹みて、海辺に棄てて、海途を閉じて俓に去ぬ。
彦火火出見(山幸)と豊玉姫(海神の娘)の結婚が破棄され、海と陸との融和が不能であることが示されます。(『日本書紀(1)』岩波書店、1994年、167頁注1)
同様の記述は、『紀』神代紀10段一書第4と『記』にもみえます。
彦波瀲武鸕鷀草葺不合の事績は特に記されませんが、「海と陸の断絶」と「道半ば」のモチーフに注目します。
また、『古語拾遺』に、掃守連遠祖天忍人が彦波瀲武鸕鷀草葺不合に近習する話がみえます。
天祖彦火尊、海神の女豊玉姫命を娉ぎたまひて、彦瀲尊を産みます。
誕育したてまつる日に、海浜に室を立てたまひき。
時に、掃守連が遠祖天忍人命、供へ奉り陪侍り。
箒を作りて蟹を掃ふ。
仍りて、鋪設を掌る。遂に職と為す。
号けて蟹守〈今の俗に借守と謂ふは、彼の詞の転れるなり。〉と曰ふ。
天祖彦火(彦火火出見)と豊玉姫の子、彦瀲(彦波瀲武鸕鷀草葺不合)を育てるための海浜の室で、掃守連遠祖天忍人が箒で蟹を掃く話がみえます。
『姓氏録』和泉国皇別の掃守首の項に、次のように記されます。
雄略天皇の御代に、掃除る事を監りければ、姓を掃守連と賜ひき
彦波瀲武鸕鷀草葺不合の産屋で天忍人が蟹を掃いた話は、掃除を職掌とする掃守連の氏族起源譚となっています。
『記』『紀』に、この話はみえませんが、彦波瀲武鸕鷀草葺不合に一義的に関与する氏族が掃守連であることを示します。
掃守は、加守・神守とも記され、各地に地名が残りますが、いずれの土地も、ホムツワケ、倭大国魂神、倭文神、兵主神、天照大神高座神社との重層性など特異な属性が認められます。(→ 掃守と倭文・兵主・大国魂)
また、大和国添上郡の率川神社、大和国十市郡の多坐弥志理都比古神社摂社の小杜神社、丹後国与謝郡の籠神社に共通する「こもり」の名称も「掃守」を示す可能性があり、掃守連1氏族だけではない広がりが窺えます。(→ 率川坐大神神御子神社)(→ 多坐弥志理都比古神社)(→ 丹後の元伊勢伝承)
彦波瀲武鸕鷀草葺不合の話は、この後に続く神武から応神までの「建国神話」のなかに描かれた道半ばで敗死する王への伏線ではないかと考えます。