『紀』垂仁紀に、「鳥取造の祖天湯河板挙」がホムツワケのために出雲で鵠を捕らえた話がみえます。
垂仁紀23年10月条に「鳥取造の祖天湯河板挙」「湯河板挙」、23年11月条に「湯河板挙」、『姓氏録』には、「天湯河板挙」「天湯河桁」「天湯川田奈」と記されます。
「湯河板挙(ゆかわたな)」の「板挙(たな)」にかんして、『記』神代記に「御倉板挙(みくらたな)之神」という名の神がみえます。
「御倉板挙之神」は、イザナキがアマテラスに授けた「御頸珠」を示し、倉のなかの棚に奉納したことによる名称とされ、クラ(倉)は神宝を納めるところであり、神座のクラでもあると解されます。(西郷信綱『古事記注釈2』2005年、15~16頁)
また、「河板挙(かわたな)」については、『延喜式』神名帳の近江国神崎郡の「川桁神社」に比定される、河桁御河辺神社(滋賀県東近江市神田町)の伝承が参考となります。
河桁御河辺神社は「湯河板挙」を祭神とし、社蔵の「鎮座記」によると、宣化天皇乙未年、神崎郡司玉祖宿禰磯戸彦が神前川(愛知川)の河辺で水中より出現した3神(河桁の神)に出会い、そのお告げによって、河辺に祭壇を作り宮を建てたのが創始とされます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):滋賀県:八日市市>神田村>河桁御河辺神社)
河桁御河辺神社の「河桁」は河辺の神座であり、「河板挙(かわたな)」も同様かと思われます。
『記』ホムツワケ伝承に、斐伊川に「簀橋」を渡して、ホムツワケの「仮宮」を造ったことがみえますが、貴人の宿所として川の上は不可解であり、これも「神座」の「河棚」を意味するのではないかと思います。
では、「湯」は何を示すのか。
鳥取連(旧姓は造)とともにホムツワケの養育に関与した若湯坐連に注目します。
若湯坐連は、「大売布(おほめふ)」を祖神するものと「胆杵磯丹杵穂(いきしにほ)」を祖神とするものの、2系統の氏族が存在するようにみえますが、2神は同一神であり、実態は1つの氏族とみられます。(→ 売布(めふ)と女布(によう)」
『延喜式』神名帳の但馬国気多郡の売布神社(兵庫県豊岡市日高町国分寺)に注目します。
但馬国府の地でもある鎮座地の「祢布ヶ森」の「祢布(によう)」は「胆杵磯丹杵穂(いきしにほ)」の「にほ」に因むものと推測されます。
売布神社の東1.8km、円山川対岸は、現在の地名は豊岡市日高町鶴岡ですが、近世は「伊福村」といわれ、「伊福」は「ゆう(いう)」)とよび習わされ、『但州湯嶋道中独案内』(文化3年(1806)年刊)に「いふ」の振り仮名が付されています。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):兵庫県:城崎郡>日高町>伊福村)
「伊福」は、伊福部臣に因むものとみられ、『伊福部臣古志』の祖神のなかに「五十研丹穂(いきしにほ)」がみえることから(→ 『因幡国伊福部臣古志』とイキシニホ)、「祢布ヶ森」から「伊福」まで、「いきしにほ」を祖神とする勢力の拠点が広がっていたものと思われます。
「伊福」の「ゆう」「いう」は、「祢布」「売布」の「によう」と同義と思われます。
伊福部臣の本拠地、因幡国法美郡の宇倍神社(鳥取県鳥取市国府町宮下)の「宇倍(うべ)」の名称は、「伊福部」を「ゆうべ」「いうべ」とよび習わしたことの名残かと想像されます。
また、宇倍神社鎮座地の因幡国法美郡稲羽郷の北に接して、鳥取連の拠点とみられる因幡国邑美郡鳥取郷が位置することに注目します。
『伊福部臣古志』に、孝徳2年(646)に因幡国に「水依評」が設置され伊福部都牟自が評督となって、のち都牟自の嫡流が法美郡司、庶流が邑美郡司となったことがみえ、法美郡稲羽郷の伊福部臣と邑美郡鳥取郷の鳥取連は一体的関係にあり、「伊福」の「ゆう」「いう」と「湯河板挙」の「湯」は、同義と思われます。
「ゆ」「ゆう」「いう」「によう」は、ホムツワケ伝承に関与した氏族の「符丁」のようなものではないかと考えます。
また、「湯」を名とする祖神に、「日子湯支(ひこゆき)」と「彦湯産隅(ひこゆむすみ)」がいます。
「日子湯支(ひこゆき)」後裔氏族として、『姓氏録』大和国神別に志貴連、河内国神別に日下部がみえ、志貴連の同族とみられる和泉国神別の志貴県主は「大売布」の後裔となっています。
また、『伊福部臣古志』の祖神のなかにも「彦湯支」がみえ、譜文に「宇麻斯遅命之子。母曰伊古麻村五十里見命女河長媛也」とあります。
「伊古麻村」の「伊古麻」は「生駒」ですが、日下部の「日下」は「生駒」西麓の地名であり、『姓氏録』に16氏みられる「日下」を名とする氏族のうち12氏は、ホムツワケの母狭穂媛の兄狭穂彦の後裔もしくは関係氏族となっています。(→ 狭穂彦後裔氏族)
さらに、「湯河板挙」を祖とする鳥取連の本拠地は、「生駒」西麓、河内国大県郡鳥取郷にあります。(→ 河内国大県郡鳥取郷と鳥取連)
「日子湯支」は、「湯河板挙」「大売布」「胆杵磯丹杵穂」と属性を共有することがわかります。
「日子湯支」の「湯」も「湯河板挙」の「湯」と同義と推測されます。
「彦湯産隅(ひこゆむすみ)」は、『記』『紀』開化系譜にみえます。
『紀』に、「丹波竹野媛」の子「彦湯産隅<亦の名彦蔣簀>」、『記』に、「旦波の大県主、名は由碁理が女、竹野比売」の子「比古由牟須美」とみえ、「丹波」は丹後なので、丹後国竹野郡を示します。(丹後国竹野郡にも鳥取郷があります)
いっぽう、『記』に「比古由牟須美」の異母弟である「建豊波豆羅和気王」の後裔として「丹波竹野別」「忍海部造」「稲羽忍海部」がみえますが、『姓氏録』河内国皇別に「忍海部」は「比古由牟須美」後裔氏族として記され、「比古由牟須美」「建豊波豆羅和気王」が混交されていることが窺われます。
さて、「建豊波豆羅和気王」の名称に注目すると、名の核とみられる「波豆羅(はづら)」は、「倭文神建葉槌」の「葉槌(はづち)」とよく似ています。
「倭文神建葉槌」を奉祭する倭文連は、鳥取連と同じく「角凝」を祖とします。
「藺生(いう)」の地名も、同じ属性をもつと思われます。(→ 「藺生」という地名について)