『紀』景行紀40年是年条に、ヤマトタケルの妃、弟橘媛が入水する話がみえます。
弟橘媛について「穂積氏忍山宿禰の女なり」とあり、51年8月条に、ヤマトタケルとのあいだに「稚武彦王」をもうけたことが記されます。
『記』は、弟橘比売がヤマトタケルとのあいだに「若建王」をもうけたことを記しますが、出自の記述はなく、「穂積臣等祖建忍山垂根女弟財郎女」が成務天皇とのあいだに「和訶奴気王」をもうけたことがみえます。
『記』『紀』のあいだに錯簡がみられますが、穂積氏忍山宿禰と「稚武彦王」「若建王」「和訶奴気王」との関係が窺われます。
◇ 「穂積氏忍山宿禰」は、継体朝に実在する「穂積臣押山」と関わるか。(→ 伊勢国鈴鹿郡・河曲郡と穂積臣押山)
◇ 『記』『紀』孝霊系譜の「稚武彦王」の子の後裔氏族(牛鹿臣・廬原臣)の拠点が、ヤマトタケル伝承と関わりを持つ。(→ 彦狭嶋王後裔氏族)