『紀』継体紀の穂積臣押山

穂積臣押山は、『紀』継体紀の3つの記事群に登場します。

任那4県割譲記事6年条
己汶・帯沙記事7〜10年条
多沙津記事23年条

田中俊明氏の研究によると、①②③は、6世紀前半の百済の加耶進出に関わる記述とされます。

百済は、5世紀末から6世紀初めにかけて全羅南道まで進出した後、さらに東の加耶南部地域を侵略するため、足がかりとなる地として「己汶」「多沙」を掌握します。

②③は、そのことを描いています。

「己汶」「多沙」は、伴跛(大加耶)を中心とする諸国連盟(大加耶連盟)に属する独立国で、「己汶」は、現在の全羅北道の南原(ナムオン)・長水(チャンス)地方、「多沙」は、己汶から蟾津江(ソムジンガン)を下った河口の港津の地、慶尚南道の河東(ハドン)地方にあたります。

「己汶」は516年までに、「多沙」は522年までに、百済に掌握されたと推測されます。

②③について、人物や記事内容に重複がみられることから、記事の重出ではないかといわれてきましたが、構成の矛盾を精査して整理すると、②は「己汶」、③は「多沙」の掌握という、百済による加耶進出の連続する2つの段階を描いたものと判断されます。

『紀』には、「己汶」は百済領、「多沙」は加耶領であり、それらの帰属について倭国が決定権を持っていたように記されますが、百済による「己汶」進出の正当化の論理、および、天皇が古来朝鮮半島に直轄地を持っていたとする『紀』の観念の反映によるもので、事実ではないと考えられます。

①は、②③に至る前段階として、徐々に百済が全羅南道まで進出した事実に基づく記述とされます。

いわゆる「任那4県(上哆唎・下哆唎・裟陀・牟婁)」は、全羅南道の栄山江(ヨンサンガン)流域に比定されます。

『紀』は、倭の直轄地である「任那4県」を百済に割譲したと記しますが、実際は、当該地は、倭とも百済とも関係を持っており、そこへ百済が強圧的に進出してきたと理解されます。(当該地域には、前方後円墳があることが知られています)

(田中俊明『大加耶連盟の興亡と「任那」』1992年、125~136頁)

(田中俊明『古代の日本と加耶』2009年、72~83頁)

では、①②③に、穂積臣押山は、どのように描かれているのでしょうか。

穂積臣押山には、2つの顔があると思われます。

1つは、百済と倭の外交を担う官吏であり、倭国王の命令を受けて百済王のもとへ派遣され、軍事力提供の見返りに五教博士を連れ帰っています。

もう1つは、栄山江流域での事業者です。

①に、「哆唎国守穂積臣押山」が百済による「任那4県」割譲要求に口添えし、百済から賂をもらったのではないかという流言があったことが記されます。

③に、「下哆唎国守穂積押山臣」と記されます。

田中俊明氏は、「哆唎国守」「下哆唎国守」は当時の呼称ではなく、しかも「割譲」後に同じ地位で登場していることから、当該地の支配と関係なく継続できる地位とみられ、「倭国内における、哆唎国の担当者」と推測されます。

「上哆唎」は、栄山江下流域左岸の霊巌(ヨンアム)、「下哆唎」は、中流域の光州(クアンジュ)に比定されます。

「倭国内における、哆唎国担当者」は、おそらく船団を率いて「哆唎」を頻繁に訪れて交易し、在地勢力と密接な関係を結んで、共同事業のようなものを展開していたのではないかと想像します。

また、通信手段が限られる状況下、百済王のもとへ派遣された穂積臣押山は、大王からの全権委任を受けていたと推測されます。

そのうえで、注目点が2つあります。

1つは、穂積臣押山の王権内部での地位です。

朝鮮半島南部の加耶諸国で事業経営しつつ王権外交を担う押山は、大王に比肩する地位にあった可能性があります。

もう1つは、全権委任の穂積臣押山に対して、百済から賂をもらったという流言です。

「任那4県」割譲は、継体の意向と考えるのが自然で、流言は、王権内部に大王の外交方針に異を唱える者が顕在化してきたことを窺わせます。

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