『延喜式』神名帳の常陸国久慈郡にみえる長幡部神社は、茨城県常陸太田市幡町、多賀山系の西麓の舌状に延びる丘陵南端の明神森に鎮座します。
『常陸国風土記』久慈郡の条に次のように記されます。
郡の東七里、大田の郷に、長幡部の社あり。
古老の曰へらく、珠売美万の命、天より降りましし時に、
御服を織らむ為に、従ひて降りたまひし神、名は綺日女の命、
本、筑紫の国の日向の二所の峰より、三野の国引津根の丘に至りき。
後に、美麻貴の天皇のみ世に及りて、長幡部の遠つ祖、多弖の命、
三野より避りて、久慈に遷り、機殿を造り立てて、初めて織りき。
その織れる服は、自づから衣装と成りて、更に裁ち縫ふこと無く、内幡と謂ふ。
或ひと曰へらく、
絁を織る時に当りて、輙く人に見らるるが故に、
屋の扇を閇ぢて、闇内にして織る。因りて烏つ織と名づく。
亅(かぎ)の兵、丙き刃も、裁ち断ることを得ず。
今、毎年に、別に神の調と為して献納れり。
長幡部の遠祖、多弖命が「三野国引津根丘」から当地に来たことが記されます。
「三野国引津根丘」について、「曳常泉」が『続紀』天平12年(740)12月2日条にみえ、岐阜県不破郡垂井町の玉泉寺の門前の「垂井の泉」に比定されます。
「垂井の泉」の北方830mに美濃国府跡があり、その東方1.7kmに「喪山」伝承を伝える「葬送山」があります。
『記』開化記系譜に、「神大根王は、三野国本巣国造・長幡部連が祖ぞ」とみえ、三野国本巣国造と長幡部連が同祖関係にあることが記されます。
常陸国久慈郡と美濃国不破郡・本巣郡の勢力のあいだに繋がりがあったことがわかります。