『記』『紀』景行段に、ヤマトタケルの兄である大碓命の後裔氏族についての記述がみえます。
『記』によると、大碓命は、景行天皇の後宮に入る予定の三野国造祖大根王の娘、兄比売・弟比売姉妹と通じ、兄比売とのあいだに押黒之兄日子王、弟比売とのあいだに押黒弟日子王をもうけ、前者は、三野宇泥須和気祖、後者は、牟宜都君等祖と記されます。
『紀』景行紀4年2月是月条に同様の話がみえ、姉妹は、美濃国造神骨の娘、兄遠子・弟遠子とあります。
子をもうけた話はみえず、『紀』景行紀40年7月条に、東国征討の命令を忌避して美濃に封じられた大碓命が身毛津君・守君の始祖となったと記されます。
『姓氏録』には、大碓命後裔氏族として、左京皇別下に牟義公、守公、河内国皇別に大田宿禰、守公、阿礼首、和泉国皇別に池田首の6氏族がみえます。
牟義公の「牟義(むげ)」は「牟宜」「牟下」「身毛」とも記され、美濃国武藝郡の地名にもとづき、弥勒寺遺跡官衙群(岐阜県関市池尻)が武藝郡衙及び氏寺とみられる弥勒寺跡に比定されます。
大宝2年(702)の「御野国加毛郡半布里戸籍」に、君族姓1人・造姓1人・部姓13人・無姓8人、「御野国本簀郡栗栖太里戸籍」に、無姓1人の牟義氏がみえ、勢力圏は、美濃市・関市を中心とする武藝郡のほか、郡上郡・山県郡・加茂郡を含む北濃東部一帯に及んでいたと考えられています。
(『日本歴史地名大系』( JapanKnowledge):岐阜県:武儀郡)
いっぽう、守公については、大宝2年(702)の「御野国味蜂間郡春部里戸籍」に部姓2人、「御野国本簀郡栗栖太里戸籍」に部姓2人、「御野国肩県郡肩々里戸籍」に部姓2人、「御野国山方郡三井田里戸籍」に部姓2人、「御野国加毛郡半布里戸籍」に部姓15人がみえ、北濃東部の加茂郡に加え、西部の池田・本巣・方県・山県の4郡に分布が認められます。
牟義公について、次のような点が注目されます。
① 天稚彦の「喪山」
『紀』神代紀第9段本文・一書第1・『記』に、天稚彦の話がみえます。
天稚彦は、国譲りの交渉のため天から葦原中国に派遣されましたが、葦原中国に居着いてしまい、天からの使者の雉に矢を射て、返された矢で落命します。
天稚彦の喪屋に訪れた味耜高彦根神が天稚彦にとても似ていたことから、縁者等が天稚彦が生き返ったと喜ぶと、死者に間違われたことに怒った味耜高彦根神が喪屋を斬り、喪屋は美濃に落下します。
『紀』神代紀第9段本文に「美濃国藍見川之上喪山」、『紀』神代紀第9段一書第1に「美濃国喪山」、『記』には「美濃国藍見河河上喪山」と記されます。
「喪山」は、岐阜県不破郡垂井町の笹原の葬送山(通称喪山)、岐阜県美濃市大矢田の2説があります。
垂井町の「喪山」は、国府の東方850mという美濃国の政治的中心地域にあり、付近を流れる相川が古くは「藍川」と記され、『和名抄』に美濃国不破郡藍川郷がみえることから、『記』『紀』の「藍見川(河)」に比定されます。(『日本歴史地名大系』( JapanKnowledge):岐阜県:美濃国>不破郡>藍川郷)
美濃市大矢田の「喪山」は、地区のほぼ中央に位置する小丘で、麓に天稚彦を祀る喪山天神社が鎮座します。
大矢田は、中世後期から近世にかけて、武儀川筋の武芸谷や板取川筋の牧谷などの美濃紙産地を控えた紙市の地として知られ、「大矢田(おやだ)」の地名は、『濃陽志略』(1756年成立)に、天稚彦の天羽々矢に由来するとあります。(『日本歴史地名大系』( JapanKnowledge):岐阜県:美濃市>大矢田村>大矢田神社、大矢田村>大矢田市)
「喪山」は、令制下の武儀郡域に属し、郡衙に比定される弥勒寺官衙遺跡群の西北4.3kmに位置し、一義的な関係勢力は牟義公といえます。
② 『延喜式』主水司条
『延喜式』主水司御正気御井神一座祭条に、牟義都首について次のような記述がみえます。
右随御正気、択宮中若宮内一井堪用者定。
先冬土王、令牟義都首渫治即祭之。
至於立春日昧旦、牟義都首汲水付司擬供奉。
一汲之後廃而不用。
宮中で行われる御正気御井神祭において、牟義公の一族とみられる牟義都首が、井戸を選んで冬に渫い清めて祭祀し、立春の暁に若水を汲み奉じる仕事に就いていたことがわかります。
また、『続日本紀』にみえる、養老元年(717)の元正天皇の美濃行幸に関わる一連の記述が、牟義公と御正気御井神祭の関係につながることが指摘されています。
9月に、元正天皇が、当耆郡の多度山の美泉(養老の滝)へ行幸し、11月に、そのことを契機として養老に改元され、12月に、美濃国に立春の暁に醴泉を汲んで献上させたと記されます。
近隣の郡ではなく、方県郡・務義郡から供奉があることから、醴泉への行幸について、牟義公の関与が推測されています。
牟義公は、大王へ水を献上する伝統があり、元正の美濃の醴泉への行幸において重要な役割を果たし、御正気御井神祭へ繋がったと考えられています。
(野村忠雄「村国連氏と身毛君氏」(『律令官人制の研究』1967年))
③ 『上宮記』逸文系譜
『釈日本紀』所引『上宮記』逸文に、継体の父、汙斯王の母は「牟義都国造、名ハ伊自牟良君」の娘とあり、継体支持勢力に牟義公が含まれています。(→ 『上宮記』逸文)
大碓命後裔氏族である牟義公・守公が勢力圏とする北濃は、大半が越美山地に属し、美濃国安八郡の神八井耳勢力と連携すると、近江国坂田郡の天野川水系・越前国の九頭竜川水系の勢力を尾張国の勢力へ繋ぐことのできる位置関係にあり、継体と尾張連目子媛の婚姻に牟義公が関与したのではないかと思われます。