『紀』景行紀40年是年条に、ヤマトタケルの3つの陵のことがみえます。
ヤマトタケルは、伊勢の能褒野で亡くなり葬られましたが、白鳥となって飛び立ち、大和の琴弾原を経て、河内の旧市邑に至ったことから、能褒野・琴弾原・旧市邑の3カ所に陵が造られ、白鳥陵と名付けられました。
『記』も、能煩野に葬られた後、白鳥となって飛び立ち、河内国の志幾に至り、そこに白鳥御陵が造られたと記します。
能褒野陵は、『延喜式』諸陵寮に、「能裒野墓〈日本武尊 在伊勢国鈴鹿郡 兆域東西二町 南北二町 守戸三烟〉」とみえ、三重県亀山市田村町の能褒野古墳に治定されていますが、「能褒野」は、鈴鹿郡北部の大野・鞠鹿野・広瀬野などの広大な台地の総称であり、比定地にも諸説がありました。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)三重県:亀山市>田村>能褒野古墳)
琴弾原陵は、奈良県御所市富田の国見山西側中腹に所在する円墳に治定されています。
しかし、「琴弾原」は、『紀』允恭紀42年11月条にみえる「琴引坂」と同地とみられ、奈良県御所市原谷と富田を結ぶ、国見山の丘陵を横切る道に比定されます。(当地には、鑵子塚古墳があります)(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)奈良県:御所市>冨田村>白鳥陵、御所市>柏原村>琴弾原・琴引坂)
旧市陵は、大阪府羽曳野市軽里の前の山古墳に治定されています。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)大阪府:羽曳野市>軽里村>前の山古墳)
ヤマトタケルの魂の化身である白鳥は、望郷の念に駆られて「琴弾原」「旧市邑」に向かったとみられ、2地域とタケルの深い関係が窺われます。
「琴弾原」「琴引坂」は、奈良県御所市玉手に南接する土地で、玉手は、『姓氏録』右京皇別上にみえる、葛城襲津彦後裔の玉手朝臣の拠点とされ、『紀』允恭紀5年7月条にみえる、葛城襲津彦の孫玉田宿禰との関係も推測されています。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)奈良県:御所市>玉手村)
『紀』に「旧市邑」、『記』に「志幾」と記される土地については、「志幾」すなわち、志幾大県主(志紀県主)の支配域が、志紀郡だけではなく古市郡にもおよぶことにより、広義の「志幾」は「旧市邑」を含んでいたといわれます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)大阪府:河内国>古市郡)
白鳥陵の所在地から、志紀県主、葛城襲津彦とヤマトタケルの関係が窺われます。
志紀県主と同祖の神八井耳後裔氏族は尾張国に重要な拠点をもち、葛城にも「高尾張」とよばれる土地があることから、ヤマトタケルと宮簀媛の結婚と草薙剣を尾張に残した話の背景に、2勢力の存在があるものと思われます。(→ 河内志紀と尾張を結ぶ神八井耳)