『紀』安康紀と雄略紀に、根使主をめぐる事件がみえます。
『紀』安康紀元年2月条によると、安康天皇が弟の大泊瀬皇子(雄略)と草香幡梭姫皇女との結婚の承諾を求めて、草香幡梭姫皇女の兄、大草香皇子のもとへ使者として、坂本臣の祖、根使主を送りました。
坂本臣は、和泉国和泉郡坂本郷(大阪府和泉市阪本町・東阪本町)を本拠とする勢力です。
大草香皇子は、妹の結婚を承諾し、「押木珠縵」という冠を献上しましたが、根使主は「押木珠縵」欲しさに、結婚は拒否されたと報告し、怒った安康天皇は、大草香皇子を殺してしまいます。
その際、大草香皇子に近習していた難波吉士日香香は、2人の子とともに殉死しました。
『紀』雄略紀14年4月条に、その後の経過がみえます。
呉人をもてなす宴会に、根使主が「押木珠縵」を着けて出たことから嘘が露見し、根使主は日根で討伐され、次のような措置が行われました。
天皇、有司に命せて、二に子孫を分ちて、
一分をば大草香部民として、皇后に封したまふ。
一分をば茅渟県主に賜ひて、負囊者とす。
即ち難波吉士日香香の子孫を求めて、姓を賜ひて大草香部吉士としたまふ。
根使主の子孫を2分して、1つを、草香幡梭姫皇女に与えて「大草香部民」とし、1つを、茅渟県主に与えて「負囊者」とし、また、難波吉士日香香の子孫に大草香部吉士を賜姓したと記されます。
着眼点が3つあります。
① 『紀』雄略紀14年4月条の坂本臣討伐と雄略紀9年5月条の紀臣分裂は、同じ表現で結ばれていることが指摘されます。
雄略紀14年4月条は「根使主の後の坂本臣と為ること、是より始れり」、雄略紀9年5月条は「是の角臣等、初め角国に居り。角臣と名けらるること、此より始れり」とあります。
坂本臣と紀臣はともに茅渟を拠点とし、『記』孝元系譜では紀角宿禰の後裔氏族として同祖関係にあります。
『紀』編者は、5世紀後半における坂本臣滅亡・紀臣分裂という茅渟の勢力の異変を、一体的なものとして認識していたと思われます。(→ 紀大磐宿禰と紀臣の分裂)
② 根使主の子孫の1/2を与えられた茅渟県主は、『姓氏録』和泉国皇別に豊城入彦後裔氏族としてみえます。
拠点は、和泉国和泉郡上泉郷・下泉郷とされ、上泉郷の泉井上神社周辺に和泉国府に比定され、下泉郷に和泉大津があり、和泉国の政治的中心地の在地勢力といえます。
大津川支流槇尾川の中流域の和泉国和泉郡坂本郷の坂本臣とほぼ拠点が重複しており、茅渟の勢力交替といえると思います。
③ 『姓氏録』河内国皇別にみえる難波忌寸(旧姓難波吉士)は、大彦の後裔氏族とされ、大彦が「兎田の墨坂」で子を拾い育てる話が記されます。
「子を拾い育てる」とは、『紀』雄略紀6年3月条の少子部蜾蠃の話にもみえ、大王直属の臣下となる人間を集めることを寓話的に表現したもので、難波忌寸(難波吉士)が大王の臣下集団に組み込まれたことを示すと考えます。(→ 大彦の「墨坂」伝承)
難波吉士は、船を持って外洋を航海し海外交渉に携わる勢力であり、日香香が大草香皇子に近習し、子孫が大草香部吉士を賜姓されていることから、草香潟の草香津を本拠としていたと思われます。
日香香は、大草香皇子直属の臣下であったと推測されますが、子孫は、大草香部吉士を賜姓され、大彦の後裔に組み込まれたことで、大王直属となったというのが勘所かと思います。
『姓氏録』にみえる日下連・大戸首などの大彦後裔氏族も同様の属性を持つものと思われます。
根使主の子孫の1/2が草香幡梭姫皇女に与えられ「大草香部民」とされたことを見ると、一見、草香幡梭姫皇女に利する措置がとられたように感じますが、草香津を支配した大草香皇子が居なくなった後、直属の海洋集団は、大王直下に掌握されたことがわかります。