『延喜式』神名帳の信濃国高井郡に墨坂神社が記されます。
長野県須坂市の同名社2社が論社とされ、「芝宮」とよばれる墨坂神社(須坂市須坂芝宮)は、墨坂神を主神とし、建御名方命を合殿、「八幡」とよばれる墨坂神社(須坂市墨坂)は、品陀和気命・気長足比売命・帯中津彦命を祭神とします。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowlegde):長野県:須坂市>須坂村>墨坂神社、須坂市>小山村>墨坂神社)
2つの墨坂神社は、1kmの至近関係にあります。


「墨坂」は、『紀』神武即位前紀、『姓氏録』難波忌寸の項などにみえる地名で、奈良県桜井市吉隠から宇陀市萩原に通ずる伊勢街道の西峠付近に比定され、現在、宇陀市榛原萩原に鎮座する墨坂神社は、もとは西峠の天の森にあったと伝わります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowlegde):奈良県:宇陀郡>榛原町>萩原村>墨坂神社)
『新抄格勅符抄』に、墨坂神に対し、天応元年(781)に信濃国に神戸1戸が充てられたことがみえ、須坂の墨坂神社との関係が推測されます。
『紀』雄略紀7年7月条に、少子部蜾蠃が捕らえた「三諸岳の神」について、「大物主神」「菟田墨坂神」とする2説が記され、三輪山の神と墨坂神の関係が窺われますが、信濃国においても、須坂の墨坂神社2社の西方約9kmに、信濃国水内郡の式内社で大物主神を祭神とする美和神社(長野市三輪)が鎮座します。
美和神社の奉祭勢力に関して、美和神社の西1kmに鎮座する、水内郡の名神大社である健御名方富命彦神別神社の存在が注目されます。
健御名方富命彦神別神社の祭神は、諏訪大社上社と同じく建御名方であり、『記』『紀』大物主神系譜には「櫛御方」「奇日方」と表記されます。
『紀』に、三輪山の大物主神に並祭されていた日神が伊勢に移されたことがみえ、また『伊勢国風土記』逸文に、伊勢の神が信濃に到来したことがみえるので、話はつながるかと思います。(→ 『伊勢国風土記』逸文の天日別と伊勢津彦)
現在の善光寺周辺は、三輪神と三輪神に並祭された日神の奉祭勢力の拠点と推測されます。
信濃国高井郡の墨坂神社も当該勢力による奉祭と思われますが、美和神社から9km離れた須坂に関連神を祭る理由を探る必要があります。
須坂の墨坂神社の東南方約13kmの四阿山カルデラの米子硫黄鉱山に注目します。
「米子鉱山沿革年表」によると、寛永年間(1624~44)請負運上稼行し、宝永年間(1704~11)米子村の竹前権兵衛が運上金30両ほどで請け負い、享保4年(1719)鷹ノ目硫黄5000貫を幕府に納め、1600両を下付されました(『上高井誌』1960~64年)。(昭和40年(1965)頃に閉山)
『続日本紀』和銅6年(713)5月癸酉(11日)条に、信濃国からの石硫黄献上の記述がみえ、『延喜式』典薬寮諸国進年料雑薬に、石硫黄は相模・信濃・下野の3国から貢上することが定められています。
『続日本紀』『延喜式』にみえる石硫黄が、米子鉱山の鷹ノ目硫黄にあたるかは不詳ですが、旧鉱山周辺は、不動滝・権現滝と滝山不動堂を中心とする四阿山信仰が展開し、比較的早く知られていたことが推測されます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowlegde):長野県:須坂市>米子村>米子不動、米子村>米子硫黄鉱山)
信濃国高井郡の墨坂神社は、威信材である米子の石硫黄の利権掌握を示す神ではなかったかと思われます。