『姓氏録』河内国皇別の難波忌寸の項に、次のような記述がみえます。
阿倍氏の遠祖、大彦命、磯城瑞籬宮御宇天皇の御世に、
蝦夷を治めに遣されし時に、兎田の墨坂に至りて、
忽ちに嬰児の啼泣を聞きて、即ち認覔ぐに、棄てたる嬰児を獲き。
大彦命、見て大く歓びて、即ち乳母を訪求むるに、
兎田弟原媛といふを得き。
便ち嬰児に付けて、能く養して長安さば、功に酧いむと曰へり。
是に人と成して奉送りければ、
大彦命、子と為て愛育ひて、号けて得彦宿禰と曰へり。
異説も並存り。
難波忌寸の祖、大彦が「兎田の墨坂」で拾った嬰児を兎田弟原媛に育てさせ、自分の子として得彦宿禰と名付けたことが記されます。
佐伯有清氏は、『紀』雄略紀6年3月条の少子部の起源伝承との関係を指摘されます。
天皇、后妃をして親ら桑こかしめて、蚕の事を勧めむと欲す。
爰に蜾蠃に命せて、国内の蚕を聚めしめたまふ。
是に、蜾蠃、誤りて嬰児を聚めて、天皇に奉献る。
天皇、大きに咲ぎたまひて、嬰児を蜾蠃に賜ひて曰はく、
「汝、自ら養へ」とのたまふ。
蜾蠃、即ち嬰児を宮墻の下に養す。
仍りて姓を賜ひて、少子部連とす。
『紀』雄略紀6年3月条
少子部蜾蠃は、雄略に「蚕を集めよ」といわれて、間違えて嬰児を集め、養育することになったので、少子部の姓を賜ったとあり、「嬰児を拾って自分の子として育てた」というモチーフが、『姓氏録』の難波忌寸の伝承と共通することがわかります。
佐伯氏は、『紀』雄略紀7年7月条に、少子部蜾蠃が捕らえた三輪山の神について「菟田墨坂神」とする注記があり、大彦が子を拾った場所が「兎田の墨坂」であることに符合すると指摘され、少子部と難波忌寸には共通の属性があり、子部の伴造氏族であったのではないかといわれます。
(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 考証篇第二』1982年、420~421頁)
「子を拾い育てる」とは、大王直属の臣下となる人間を集めることを寓話的に表現したもので、当該伝承は、難波忌寸(難波吉士)が大王の臣下集団に組み込まれたことを示すものではないかと考えます。
『紀』雄略紀14年4月条の大草香部吉士の賜姓記事に対応するもので、『紀』顕宗紀元年5月条の狭狭城山君の賜姓記事も同様の事象を描いていると推測します。
また、少子部蜾蠃の三輪山の神の話を合わせると、大彦とは、三輪山の神に関わる観念ではないかと思われます。
(→ 雄略朝の三輪山の神と臣下集団形成)